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「叱る」ことは、教師の技量ではない。

教育書を読んでいると、「叱り方のポイント」などという項目がある。中には、

「叱る日を決め、計画的に叱ろう。」

のような記述が見られる。僕は、その項目がある時点で購入しないと決めている。どう考えても、効果がないからだ。

考え方は人それぞれ。一口に「叱る」と言っても感情云々とか、声の大きさ、目線、口調などなど、様々な捉えがある。だからこそ、教育書の中に例題つきでまとめられるのだが。

僕、個人の考えからすると、今までの教員人生の中で、「叱ってよかった。」「叱ったからそこ力を発揮した。」と感じたことは一度もない。

もともと、感情が低い安定を保っていることも関係している気もするが。だからこそ、「叱る」ことの効果を実感できていない。では、本としてまとめられるくらい「叱る」実践を積み上げてきた教師は、どのような効果を期待しているのか疑問である。

子ども目線で考える「叱る」指導の効果。

「教師」目線で考えても結論は出ないので、「子ども」目線。むしろ、自分の小学校時代を振り返って考えてみたいと思う。自分自身が小学校時代に「叱られる」ことで身に着いたのは、教師の顔色をうかがって、「叱られることを回避するスキル」と、「苦い思い出」だけである。

自分でいうのも何だが、小学校時代は真面目な方だったと思う。間違いなく「叱られる」ことに慣れてはいなかった。さらに、自分で言うのも何だが、世の中の不条理に心痛めた小学生であった。(当時の僕が、今の僕の学級にいたら、ちょっと嫌かなあ)

とある日、帰りの会がなかなか始まらない。もちろん僕は、自分の準備を済ませて静かに座っている。教師の顔をちらちら見る。明らかにいら立っている。「早く帰りの会を始めろ。」という雰囲気を醸し出しているが、いつものように始まる気配はない。そして、いつも通りの結末。

「いつまで、騒いでいるんだ! さっさと席に着け!」

勢いよく立ち上がって叫んでいる教師。

「あ~あ。何回同じ流れを繰り返すんだよ。」

と、冷めている僕。ん~今思い返してみるとなかなか嫌な奴だ。みんなに呼びかければいいんだけどね。「座ろうよ!」って。でも、そこまでする勇気?は当時、なかったんです。でも、今もそんな感性をもった子どもいますよね。たくさん。僕は、とっても気持ちが分かります。

さて、本題です。これは、「叱って」いるのでしょうか。

これは、指導ではありませんよね。言えばいいんですよ、

「そろそろ帰りの会始めよう。」

って、教師が。むしろ、放っておいたらいつまでも騒がしくて帰りの会ができない状態は、教師の責任だよなあ。と思います。

自ら「怒る」場面を作り出していたんですよね。「座れ!」って叫びたいから、何も言わずに機会を伺っていたとしか思えません。

「叱る」ことを技量として正当化してはいけない。

僕が、一番納得できないことは、「叱る」という行為を教師の技量のように扱っていることです。

「叱る」ことはいいこと。
「叱る」ことは、指導の一貫である。

と安易に考えてはいけないと、僕は思います。だって、「叱る」必要性がなく1年間を終えられたら、その方が素晴らしいですよね。だから、「叱る」場面を作り出してしまった自分の指導力を改善していくことが、教師力を上げることだと思うのです。

だから、勘違いするんじゃないかと危険視しているのは、

「3日目に叱る場面を設定する。」

と書かれたような教育書です。何度読み返しても、これは

「教師の権威性を示す。」

ために行われる、「教師による教師のための教師の怒り」ですよね。100%教師目線の指導だと・・・。指導ではないか。

確かに、子どもが間違った方向へ行かないよう、アドバイスするのは教師の大切な仕事です。しかし、アドバイス方法で、「叱る」を選択するのは、絶対ではありません。そう、どのように伝えるのかは、教師の「選択」にかかっているのです。

まとめ。

「叱る」ことで、子どもを委縮させ「反省しているように振舞う」ことを求めてはいけません。そんなことをしていたら、「表面だけを取り繕うような子ども」や、「空気を読むことに徹して自分を表現できない子ども」を育ててしまいます。

素晴らしい学級で、素晴らしい子どもたちを育てている教師は、「叱る」という選択肢を最後の最後まで出さずにとっています。「叱る」というのは、本当に止めさせなければならない行動を抑止する教師がもつ「最後の手段」なのです。普段の生活で、頻繁に見られるものではありません。「話を聴く」とか「事前に手立てを打っておく」などの選択肢を選びつつ、学級経営できてこそ、本当の教師なのです。

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