全く何も持っていないときの思想

「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと変えられるものを変える勇気とその両者を見分ける英知を我に与え給え。」
私のモットーはニーバーの祈りだ。大学受験に失敗して1年ぐらいふてくされていた時に発見した。ペンギンが空を飛べると思うか。

変えようのない現実に悩んだって時間の無駄っす。しかし人間は飛べた。変化を見分ける英知は人間には与えられていない。それは変えることの出来ることか変えることができないものか?神ならぬ人間に結果は分からない。

現状に納得いかないのなら変える行動をすること、諦めるなら心の平安を求めること。本当に自分は何もできないのか。実現可能性の低いと思われたことでも、行動100%はできなくても5%ぐらいはできるでしょ?諦めたら試合終了ですよ。

(と、3晩徹夜して入院したのが大学卒論時で2度目の挫折したんですが。)諦めも大切です。でも、未来が分からないのなら、自分が納得できるかどうかしか行動の判断の基準にならない。

もっとも、叶えたい望みがありつつ、平安を得られず、叶わないことに煩悶するのが人生だとも思っている。

地獄の業火でわが身を焼き滅ぼすのもまた一興ではないか。何にも持たない人生より充実しているのではないだろうか。感情の大きさという意味で(と、なんちゃって実存主義者は感情を一番重視するのでつか、まあできるだけご免こうむりたいとは思うっすが、それもまた自分の人生である。他に替えのなさではオリジナルです)

でも、本当に自分は望みが叶っていないのだろうか、とは思うっすよね。「今」ないとはどういうことか。将来まで断言できるのか。食べるのに人を傷つけずに済んでいるのではないか。

何もないところからスタートする思想ってないのだろうか、とか。

と、宮台先生の本読んでいて、期待外れにどう対応するかっポイの。僕なりに解釈すると期待外れにあって、それでもなお希望を捨てないとは、であります。

「システムの社会理論」という本を読んでいて、期待外れにどう対処するかで4類型っぽいのである。育ちがいい、苦労していないと万事につけ期待水準を高めに設定したうえで、期待外れのすべてに模範的態度を示す「バンカラ風さわやか人間」(東大女子が多い)、万事につけ期待水準を低めに設定することで期待外れの衝撃を回避する「頭の良いニヒリスト」(早大政経学部男子が多い)、高度な学習能力で自称ごとに期待水準をダイナミックに変更して期待外れを回避する「ミーハー自信家」とか。(最も30年前の類型で今は違うだろってな感じだそうですが)。望みが叶わないことに対してどう対処するのか。さらに努力すれば叶うと思うのか、諦めるのか世間を恨むのか。

希望を捨てない?東大女子戦略が強いようで、ニヒリスト(早大政経男子)も生きやすいように思っている。ニヒリスト戦略でいると、自分は本来何も持っていないのが正しいクズなんだと思っていると何が起こっても楽しいっす。というか、自分、病気してます。なんか、病気で死んでいる人生とか、入院している人生とかリアルに想像できます。本当、わての病気、障碍者手帳かもーんであるので、今の自分の順調?なのはうそっぱち、一人孤独な人生が本当のような気がする。

と思っていると、毎日、連れ合いとしゃべって、仕事もしているって、まあ多少それらに軋轢があるにしろ、感謝感謝です。上手くいっていないのが本当で、きしんでも関係があるだけすごいっつか。嫌なことがあってもやることやっていくだけです。

最低になったら(最低を想定したら)これ以上悪くならない。恐れるものがあるので、恐怖につかまれる。落ち込むところまで落ち込んだらやるしかないのっす。たぶん。勇気が湧いてくるのティリヒです。このひどい現状が当然の人間か、自分は。んなわけな~い。クズだって生きる瀬はあるはずだ。いや、善人に良いことが起こると思うほど甘ったれてはいない、甘受はするが、あがく権利だってあるのっすよ!とふつふつと反発心、やる気が。ふふふ。

落ち込んだ時こそ前向きになれる。同じパターンだから失敗しているんでないのか。違うパターンにしてみるとか、今は信頼を蓄積するとき(待つ)ので、じっくり取り組みつつ、ここが穴なような気もするし余暇で気分紛らわせで勉強しとこう、とか、やることないことはないと思ってるっす。

ティリヒ、伝記は8分流し読みしたけど、書いた本は3行読んで図書館に返したっすが、僕と相性よさそうっすような。てか、頭のいい人の書いたのって、より精緻に書いてきて僕がっかりナンスよね。いいけど。

自分、最低の、クズの自覚在ります。順調な今はいいけど、追い込まれたら何でもするんだろうなっぽいの。でも、良いことは起こり、好意は与えられます。それを当然だと思わない、そこに感謝の念があると、周りに人が寄ってきます(?)。今日は赤信号に引っ掛からなかったとか、何気ない親切とかっす。それで嬉しくなれる。

棚ぼたを期待する人生、他力本願を期待するのは人生設計として間違ってるっポイ意識が自分にはあるので厳しくもあるが、実際のところは良いことは転がっています。自分のやったことで評価されるだけの世界ではなく、実績に値しない好意を与えられることがないのか(それって愛)、と言えばあると思います。ふとした思いやりを見せれられる余裕が日本人にはある?

日本では流される人生でもそれなりに楽しめるとは思っています。日本人て日本語しゃべって、連帯感がある。敵対していない。

触らぬ神に祟りなしと、ヤバそうなら遠くから見守るけど。というか、自分で悟らないとしょうがないときもあって、人間関係では待つ、ことも必要なんすが。で、まあ一声かけたろうかと思うには優しい雰囲気のほうが有利で、人生恨んでいる人より、前向きにへらへら笑っているほうが、人の輪ができるような、まずい方に転がるんでなくて、いい方に転がるようなっぽいのは思ってます。

てか、自分、期待外れがあっても、その悪いと思っていた中に良さを発見して嬉しくなる、切り替えの早さつか、柔軟性つか、怖いよなー物事いい面と悪い面は裏表なんで、(説明いるか?健康でいると、順調だとそれが当然だと思い、無理をしてしまう。現状が良いと今の方針の疑いの目が行き届かなくなくなる。自省心を失い人が腐る可能性も出る)、良かった探しって(ポリアンナ)練習したら、人生楽しくなるんでないのっぽくも思う。

今日起こった良いことを寝る前に日記に5つかいたら、運が回ってくるとかいうの、感謝なことが周りにあふれて楽しい気分になり、それが周りに伝わり好意をかけられるッつー、効果あると思ってる(?)小さな喜びを発見して受け入れることも変わる勇気の1歩であると思ってるっす。変えていく勇気がなじむまで外で笑って家で風呂で音楽流して落ち込んで、ではあると思うけど。

ニーバーの祈り
https://www.pauline.or.jp/prayingtime/vari_rein_short.php

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