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居場所がない。そう悩む人へ

アリストテレスっす。マルクスっす。

すいません、少しふざけました笑
哲学って難しくて、「結局何なの?」とツッコミたくなるけど、「なんとなくわかるわぁ」みたいなことも結構あったりする。
知識として哲学がわかるという意味でなく、なんとなく自分にとって必要なことなのかな、みたいな。

以前、『居場所より、立ちどころがあるか』について書いた。
今回もそれに引き続いて。

自分みたいな人間が偉そうなこと言えないけど、要は居場所なんかより、自分の立ちどころは何処なのか?の方が重要だと思う、って話。
これは前回も今回も一貫してる。


人間は社会的動物である。

人間は“社会的動物”って言われるくらいだし、環境に依存することはよくある。一方で、その環境やコミュニティが自分に合わなかったり、馴染めなかったりして落ち込んで悩んで、それでも我慢して、、、みたいなことが多々ある。

自分の居場所があるのかないのか、それを求めたい気持ちも分かるけど、結局不安になったりするなら、まずは“立ちどころ”をはっきりさせる。それだけで結構救われたりするんじゃないのかな、と思う。

鶏が先か、卵が先か

じゃないけど、それこそ社会というものがまずあって、自分という存在があるか。それとも、まず自分という存在があって社会になるのか。

別に、社会というものを否定したいわけでもないし、組織や居場所を否定したいわけでもない。個人というものが確立されれば、それを社会は見過ごしてはいけないし、個人として自分の“立ちどころ”があれば、そこに社会は開けて居場所も自然とできる気がする。

僕が“個人として動く”とか“発信する”とか言ってるのも、また社会の中であって、これが居場所になるかどうかはわからないけど、自分の確かな“立ちどころ”はあると思っている。

なんかごちゃごちゃしてきて、わからなくなったから、とりあえずアリストテレスっす。マルクスっす。


自分らしく

僕は、ハンドボール選手としての道は中途半端に終わってしまった。だから、そのときのメンバーとか先輩とか、お世話になった人たちに会わせる顔ないと思っていたし、実際に会いにいくこともしなかった。もうハンドボールに自分の居場所はないと思ってた時期もあった。

けど、ハンドボールが好きでハンドボールファンで、ハンドボールのことやハンドボールに対しての想いはずっとあった。そういうハンドボールが好きだという“立ちどころ”がはっきりしたら、意外と普通にみんなとも会うことが出来た。むしろ、会うような機会がどんどん増えていった。

今でも、ハンドボールプレーヤーとして競技を楽しめているし、指導者もさせてもらうことができている。

こういう転機みたいな経験があったのも、お寺のことを学びにいった京都での出会いがあったからこそ!あらためて、そんなところから自分の“立ちどころ”がもっと明確になった。

だからこそ!
“居場所”という不確かなものを求めるよりも、自分は何が好きなのか?何がしたいのか?それぞれの“立ちどころ”“よりどころ”みたいなものをはっきりさせることが先決だと思う。

例え、それが家に引きこもってゲーム三昧の日々みたいなことだったとしても、それがそのときの自分の“立ちどころ”なら別にいいんじゃないか?
今なんて、ゲームも“eスポーツ”として競技になっているし、プロもいる。

高校生って、いろんな悩みや葛藤、将来への漠然とした不安などいろいろ抱えている。
彼らがハンドボールプレーヤーとして、ハンドボールが好き!という“立ちどころ"を持ってくれたら嬉しいし、そのために指導している。そんな彼らの居場所もきっと部活動だと思う。

目指すものが少しでも見えてくれば、そこは居場所にだってなる。

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