【読書日記】『ののはな通信』

『ののはな通信』三浦しをん

 あれは数年前、神保町にある書店でのことだった。たいへん、たいへん信頼している人と書棚を眺めていると『ののはな通信』を見つけたので「この本」と示す。
「この本、持ってこようか悩んだの。でも重たいかなってやめちゃった、好きな本を渡されるって重たいでしょう」
「僕はそういうの好きだけど」
「だったら持ってくればよかったな。わたしこの本は死んだら棺に入れてほしい」
「なるほど。つまりゆきさんの魂の一冊か」
 魂の一冊。まさにそうだ。心から愛する一冊『ののはな通信』は、出会った日からずっとわたしを構成する一冊となっている。この狂おしいほどの気持ちをどう表現すればいいのか、言葉で言い表すことはできるのか、とはいえできるかできないかなど問題ではない。だってわたしがなにかを伝えるために持っているのは言葉だけだもの。
 それにしても「魂の一冊」だなんて言ってしまえる彼も彼だろう、本を愛する人って、本当に本を愛しているのね。

 読書日記として好きな本のことを書こうと思ったのは、目一杯、本の話をしたかったからだ。おそらくわたしは友人知人から本の好きな人として認識されているのだろうが、その好きの度合いは正しく伝わっていない。
 好きなのだ。ものすごく。
 多くの人がだれかに恋をするのと同じ熱量でわたしは本に、言葉に恋焦がれる。大学院で文学研究をしていた頃は研究対象の詩をぼろぼろ泣きながら読むという、側から見れば奇妙な行動をとっていた。だって、溢れてしまうもの。言葉の持つ温度や匂いや手触りが、それがただインクで印刷された言葉の集合ではなく実際に生きていた人が書いたのだという事実が、そして何年も何十年もの時を越えてスペイン語という異国の言葉で書かれたものを自分の力で読めるという喜びが、一度に押し寄せもう涙として外へ出さなければどうにかなりそうなほど幸せなのだった。
 けれどわたしがどのくらい本が好きなのかという話をすると呆れたように笑われることがよくある。
 たとえばおすすめの本を教えて、と日常的に言われるのだけれど、正直にどのくらいすばらしいかを話しながらすすめると大抵の人が苦笑いを浮かべる。あるいは、そんな真剣に読まないよ暇つぶしだし、と言われてしまう。わかっている、わたしの熱量が異常なのだ。わかっている、でも話したいのよ大好きな本のことを!
 そんな失敗を繰り返すうち気がついたのだった。書けばいい。書くのは自由だ。ここで目一杯、好きな本の話をしよう。
 でも、どの本から?
 自分を構成していると考える本は『ののはな通信』だけじゃない。たくさんある。たくさんあるのよだって子供の頃からずっと本が好きだった。
 でもいまのわたしは『ののはな通信』から始めたいと思ったのです。これだけ前置きを書いておいて理由などないのが拍子抜けですが、でもいいでしょう、ここはわたしが好きな本の話を好きにする場所なのだから。
 長く付き合いのある本も読書日記を書くにあたり読み返してから書く、というのを自分のなかで決め事といたします。記憶だけで書くのではなく、いまのわたしの、息をしている言葉で書いてみたい。

『ののはな通信』を読みながら、あるいは読み終わったときに、だれかの顔を思い浮かべることができたらそれはきっと、いいえ絶対に、幸せなことだと言えるでしょう。だれかを心から愛した経験、愛された経験、人を想うということ、それがたとえ幼い頃の恋だとしてもその記憶はうつくしく清潔です。
 人を愛するということ。
 それは決して当たり前のことではないとこの年齢になってよく思う。わたしはたぶん我慢をすれば大抵のことができる質で、恋愛もおそらくそのうちのひとつだ。そのうちのひとつになってしまったと言う方が正しい。だってもう愛は知った。あんな愛は人生で一度きりだとわかるほど、あれは全力の愛だった。二十歳過ぎですべての愛も憎しみも知って以来、わたしはずっと余生を生きている。
 『ののはな通信』は、これは、わたしの物語だ。
 愛の記憶を持つ人はきっとそう思うことでしょう。わたしも思いました、心から、これはわたしの物語だと思いました。
 自分にとってとくべつな一冊となる本は不思議とそんな気持ちを与えてくれる。
 それは決して感情移入ができるとか、自身の経験と重なるだとかの単純な理由ではなく、ただもっともっと深いところで、この本をこんなにも理解できるのはわたしだけだという確信。そんな気持ちだ。一体、そうした本とどのくらい出会えるのだろう。
 幸せなことにわたしはたくさん出会ってきた。きっと、本を愛する人々は自分だけの宝物の本を持っているはずだ。そしてもしも同じ本を同じように(もちろん同じではない、読書はそれぞれの体験だもの。ただ愛するという点において同じように、ということ)抱きしめながら生きてきた人と出会えたらそれはもうほとんど奇跡なのです。
 あるいは、教え合うこと。
 もしも自分の大切な本を、この人にも読んでもらいたい、と思えることがあったらそれもまためまいのするほどに幸せなことだと思う。だってそんなことこの人生で何度あるの?
 おすすめの本を聞かれてこたえてもその熱量に笑われるたびわたしはひっそり傷ついていました。宝物を見せたのに伝わらない、それは本そのものまで笑われたような気持ちになるのです。わたしのこうした潔癖すぎるところを面倒だと思う人もいるのでしょうが、でも変えられない。わたしは本を、そしてこの『ののはな通信』を愛している。

『ののはな通信』はののちゃんとはなちゃんの交わした言葉たちで構成されている。
 ああ、なんて難しいのだろうこの本の魅力を伝えることが!
 へたなことは言わない方がいいのだと思うもの、だってののちゃんとはなちゃんが全部話してくれているもの。
 ののとはな、ふたりは言葉にどのくらい自分たちを委ねていたことか。どこまでも愛おしい一冊なのだ。同じことしか言えないけれど、わたしはこの本を愛している。
 どうか優しい愛の記憶を抱えた人にこの本が届いてほしいと心から願います。優しい愛の記憶とは、決して争わなかった穏やかな愛だけを言うのではありません。苦しみや憎しみに押しつぶされようとも、振り返ればなかったことにはできない愛の記憶。いつか時間が経って受け入れられるようになること。どれだけ忘れたくても忘れられない日々のこと。
 どうか優しい愛の記憶を抱えた人にこの本が届きますように。
 もしかしたらここを見てくれているかもしれない友人たちへ、インターネットで交流していただいている大切な方々へ、そしてまだ見ぬあなたへ、おびただしいほどの愛を込めてこの読書日記を綴ります。

 最後にもうひとつ。
『ののはな通信』の文庫本には辻村深月さんによる解説がある。家では基本的に単行本で読むことが多くこのところは『ののはな通信』の文庫本にあまり触れてこなかった。だから解説をどなたが書かれているのかはすっかり忘れていたのだけれど、今回、この読書日記を書くにあたり単行本を読み返してから、そうだ、文庫本の解説はどんなのだっただろうと確認し、わたしはあまりの喜びに本棚の前で文字通りしゃがみ込んでしまったのだった。
 辻村深月さん!
 辻村さんの本はこれまで『かがみの孤城』しか読んでいなかったのだけれど、この本は、ああ、これもなんて愛しい本だろう。何度読んだかわからない。
 その辻村さんについて、すこし前に友人から『スロウハイツの神様』をすすめられており、ちょうど読もうと準備したところだったのだ。さらに本を準備したすぐ後に新聞で彼女のすてきな記事を読んだ。読者であるご友人を訪ねる幸せな旅について。
 そんなことがあった後だったから、今回『ののはな通信』の解説が辻村さんだと知ってしゃがみ込むほど胸がいっぱいになったのだった。彼女の解説は文庫本を購入した際に読んでいるはずだけれど、すっかり記憶から抜け落ちていた結果、偶然とはいえ言葉にならないほど幸せで驚いたのだ。本当に、なんて幸せなことだろう! 自分の好きな本や作者さんがどんどん繋がってゆくこのかんじ。本や言葉が、どこまでも翼となってわたしを運んでくれる。本当に、この世界に小説が、詩が、言葉があるという幸せ!

 『ののはな通信』の紹介というより『ののはな通信』の周辺にあるわたしの感情を拾い集めたようになってしまったけれど、でもこんなにも、さまざまな感情の生まれる本だということが、せめてすこしでも伝わりますように。


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