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真夜中のチャイ

うっかり早くに寝てしまって、夜中にふと目が覚めた。視界に入った時計は3時を指していた。中学校に入学したばかりの私にとって、夜中の3時は未知の異次元の世界だった。起きる直前まで夢を見ていて、またすぐに目をつぶれば夢のつづきに戻れるくらいにうっかりした感じの薄い目覚め方だった。もちろんまた眠るつもりでそのまま意識が夢のところへ行くのを感じていた。あぁ、もう一回夢のつづきが見れるなぁと思ったその時、小さな物音がした。

コト、コト、コト。と規則的な音で、気付かなければ、気付かないというような感じのとても小さな音だった。でも気付いてしまえば、やはり気になるもので夢はあっという間に遥か彼方に遠退いていってしまった。とても眠かったのだけど、べったりと力の抜けている身体をベッドから剥がすように起き上がり、ペタペタと裸足で廊下を歩いて音のなる方へ行った。月明かりがちょうど差し込んで電気をつけなくても十分に明るかった。

音は台所から聞こえた。電気の明るさと眠いのとで、まぶたがうまく開かず、薄目で台所に入ると、お兄ちゃんがコンロに向かって立っていた。コトコトという音は、何かを煮立てている音だった。

「お兄ちゃん、おかえり。いつもこんなに遅いの?」

お兄ちゃんは振り返って、ちょっと気まずそうにした。10歳年上のお兄ちゃんは、その頃、近所の遅くまでやっている喫茶店でバイトをしていた。まだ子供の私は寝るのも早く、夜の時間帯にお兄ちゃんに会うのは久しぶりだった。

「もっと早く帰ってきたんだよ。お風呂入って寝ようと思ったんだけど、なんだか暖かいものが飲みたくって。」

言い訳のようにそう言うと、コンロの火を止めた。確かにお兄ちゃんはいつもパジャマとして着ているヨレヨレのTシャツとスウェットのズボンを履いていた。

「ちょうど出来たから、おまえも飲みなよ。」

そう言って、棚からカップを二つ出すと小さな片手鍋から何やら美味しそうなものを注いでテーブルの上に置いた。

「うちのお店で出しているチャイっていう飲み物だよ。身体が温まるからまたぐっすり眠れるよ。」

私はまだ目がうまく覚めず、半分夢の中にいるような感じだった。目の前に置かれたいつも使っているチューリップが描かれたマグカップから少しスパイシーな甘い香りが立ち上っている。シナモンの香りが強いけど、一口飲むと思ったよりも甘くとても美味しかった。お兄ちゃんにそう言うと、お兄ちゃんはちょっと嬉しそうに、お店秘伝のレシピを更に改良したんだと言った。そして、みんなに内緒な。と言って笑った。笑ったお兄ちゃんの顔を久しぶりに見た気がした。ほとんどすれ違いの生活をしているので、だいたいどちらかが寝ぼけた顔をしていて、まともな会話も久しぶりだった。お兄ちゃんはふと遠くを見るように私の顔を見ると、独り言のようにこう言った。

「大きくなったな。そして、まだまだ大きくなるんだな。不思議だなぁ。」

酔っ払った時のお父さんみたいなことを言うなぁと思って、こう言った。

「お兄ちゃん、私、もっと美人になると思うよ。彼氏がたくさん出来て、お兄ちゃんとこうしてお茶する暇もなくなると思うよ。今のうちにもっとチャイを私に作ってあげたほうがいいと思うよ。」

お兄ちゃんはプッと吹き出すと、飲み終わったマグカップを流しで洗い始めた。

「そうだね。彼氏がたくさん出来るということは、きっと失恋もたくさんするだろうから、失恋した時にも作ってあげるよ。」

「お兄ちゃん、全員私が振るからそれは大丈夫よ。」

私がそう言うと、呆れた顔でこっちを見た。お兄ちゃんの目には、くしゃくしゃのパジャマで、寝癖をつけ、目も半分閉じている寝ぼけた顔をした小さな子供が映っていただろう。

「おまえがそんないい女になるところなんて想像つかないよ。もういいから、早く寝な。」

お兄ちゃんはめんどくさそうにそう言うと、鼻歌を歌い始めた。よく聞くと最近流行っている失恋ソングだった。腹が立ったけど、それよりも眠くて、とにかく部屋に戻った。チャイがお腹の中にタプンといる。布団に入ると、さっき見ていた夢のことが気になった。どんな夢を見ていたっけ?楽しい夢だった気がするな。と、少し思い出そうとしたけど、さっぱり思い出せなかった。でも、美味しいチャイを飲めたし、お兄ちゃんの笑った顔も見れたし、起きて良かったなぁと思いながら夢の中へ戻った。

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