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弟のマグカップ

少し前にカップの入っている戸棚の整理をした。戸棚にはたくさんのマグカップや湯呑みが入っていて、そのほとんどを使っていなかった。家族が複数いると、よく使っているものは分かるが、実際のところ誰がどのカップを所有しているのか、お気に入りはどれなのか、あまり使ってはいないけど実は思い入れがあるのかとか、そんなことがまるで分からない。そんな訳で、家族が揃った日にカップの断捨離をした。

あまりお客さんが来ないわりに山ほどある客用の湯呑み、結婚式の引き出物のカップアンドソーサー、どこぞやのコーヒーショップのロゴ入りマグカップ、冷たいものをほとんど飲まないのにこれまた戸棚の一角を占拠しているガラスのコップたち。それらを、どんどんと不燃ゴミの袋に入れていった。

わたしが残したのは、ずっと使っているものより新しく買ったものが多かった。家でありとあらゆるお茶、コーヒー、または白湯を飲むので、マグカップは一つでは心もとない。それでもやはり多すぎて、いくつかは手放した。迷いつつも、もう必要ないなと手放した。小学生の頃、仲の良かった友達にもらったカントリー調のぽってりとしたフォルムのマグカップも、本当に長い間使っていたし、気に入っていたのだけど手放した。それなのに、思いもよらなかったマグカップを自分の物として手元に残した。

それは、弟のマグカップだった。たしか、弟が小学生の頃に買ったものだと思う。可愛らしい絵柄で野球少年がバットとボールを一生懸命に運んでいる割と大きめのマグカップだ。小学生の頃、弟は野球部だった。だからこのマグカップを選んだのかもしれない。あまり弟がこのマグカップを使っていたことは覚えていないのだけども、とにかく弟のマグカップとして、長い間戸棚の中にしまわれていた。弟はもうずっと前に家を出た。忘れていったのか、置いていったのか。そのマグカップは戸棚の奥にあり、そこだけ時間が止まっているかのようだった。

ホコリをかぶっていてもおかしくないくらいに長く使われてなかったマグカップは、ゴミ袋に直行するはずだった。それでなくてもカップが多いし、わたしには、もうすでにとても気に入っているマグカップが数個ある。それなのに、どうしてか、わたしがそのマグカップを使うといって残すことにした。それは、別に弟のものを捨てるのが嫌だった訳ではない。元来、わたしは他人の持ち物に興味はなく、すぐに捨てればいいと言い放つ薄情者だ。

使うと言った手前、お気に入りのマグカップを使わずに、わざわざ弟のマグカップを使いコーヒーか紅茶かを飲むようになった。それは、なんとも不思議な感じだった。自分のマグカップという意識は微塵もなく、弟のマグカップで飲んでいるという感覚が強い。そして、まだその感覚に慣れない。弟といっても、もう20年近く同じ家で暮らしたことはなく、これからも一生一緒に暮らすことはないはずだ。そんな人のマグカップを使うということは本当に奇妙なことだ。これは一種の形見だなと思う。

もちろん弟はとても元気で健康で働き盛りで、子供も可愛いし幸せそうで、死ぬ気配は微塵も感じない。でも、これは形見なのだ。使うたびに弟を思い出し、弟と暮らした頃の空気を思い出す。わたしも弟も子供で、未来は果てしなく、何も決まったことがなく、力を持て余し、ぶつかっては転び、起き上がっては笑いあっていた。手をつなぎ、子供の足で歩き回っていた世界には、怖いものはなかったはずだ。それは、今はもうなくて、そこにいた人ももういない。みんな、もうそこにはいなくなってしまったし、わたしも弟もそこにはいない。マグカップを見て思い出すことは、何か具体的なことではなく、それは、もはや普遍的な姉と弟の遠い思い出のイメージのようなものでしかない。

前に、恐ろしく元気な甥っ子と姪っ子に疲れ果てて頭を抱えたわたしを見て、母は「あなたたちきょうだいの方がうるさかった。」と言った。嘘だと思いつつも、微かな記憶のかなたにバタバタと走り回り奇声をあげている弟の姿が見える。笑ってしまうくらいに、ギャーギャーとうるさく、どうしようもない悪ガキ二人がそこにいる。そして、その頃、弟はこのマグカップで牛乳を飲んでいたはずだ。

今はまだ、弟のマグカップを使うたびに、もう思い出せない幼いわたしと弟が放つ、一瞬であり、永遠である眩しい日々の端っこを掴めそうな気がして目を細めてしまう。でも、いつか弟のマグカップを使うことに慣れる日がくるだろう。こんなことを考えていたことも忘れてしまうだろう。だから、その間、もう少しだけ、弟とのぼんやりとした思い出に浸ろうと思っている。

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