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復活祭と宴会

今年も微妙な気持ちになる復活祭がやってまいりました。
前日まで悲しくキリストの死を振り返っていたのに、いきなり祝えと言われても。厳かな除夜の鐘つきからの謹賀新年どころじゃない。イメージとしては東日本震災の記念日の翌日が海の日みたいな感じ。おめでとう!って、そんなに器用に気持ちの切り替えはできない。
でも、ここ数年わりと真面目に毎週のミサ配信を見て、かつてなく敬虔な気になっている私は、少しだけわかってきた気がする。
それこそが愛なのだとか、十字架につけた人に救いを求めるという不可思議だとか、難しい解釈はいろいろあるけれど、単純に、キリストは”神の子羊”とか”永遠の命の糧”とか呼ばれて、”屠られた”ことになっている。私たちはラム肉を食べるために羊を屠殺したからといって、その犠牲を深く心に刻むとしても、そんなに長く悲しんだりしない。心から感謝して美味しくいただくだけ。やっぱりカトリックって、「みんなで食事おいしいな教」だと思うんですけどね。
それどころか、ミサを見るたびに、これは宴会講座なのではないか、という気がしている。最初に最近の非礼を認めて詫び、会の主旨を確認し、主賓を讃えまくり、主賓のエピソードを2つ3つ語り、それについて幹事を中心に解釈し、次に、出てきた食事や飲み物について語り、感謝して皆で乾杯し、最後に参加者の発展を願って解散する。なんて完璧な宴会の式次第だろう。飲み会の幹事になったら採用したい。
これからもますます、感謝して毎日の食事をおいしくいただきたい。そして行動制限が緩和されたら、友人や同僚と宴会を開きまくりたい。それが私のささやかな願いです。

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