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彼の噛みあと 第17話(最終話)

いよいよあと3時間で最後の港に着港、という時刻になった。
下船を前にして、船内中の人々が沸き立っていた。
船上のイベントで知り合いになった乗客や、航海中毎日のように通うことで親しくなったレストランの給仕や船員などと別れを惜しんだり、再び会う約束をしたりする人々で、どこもかしこも賑やかだった。


園子達は帰り支度をすべて終え、最後の景色を惜しむように2人でバルコニーで珈琲を飲んでいた。
そんな中で、彼からメールが着た。
【園子、今から部屋に来られる?15分ぐらいだけ。】
件名欄にそれだけ書かれている。
園子は思わず祖母の顔を見た。
「彼?」
園子が頷くと、祖母はちょっとため息をつくようにしながらも優しく微笑んで、
「行っていらっしゃい。私もそろそろ佐山さん夫婦に挨拶してくるわ」
と言った。


9059号室に行くと、彼は園子を抱きしめてキスをした。
「この船に園子が乗っててくれて本当に楽しかった。家も近いことがわかって安心したよ」
と優しい笑顔で言った。


園子は、今朝から下船前の感傷的な雰囲気の中で泣きそうな気分だったので、彼に会ったら泣いてしまうのではないかと思っていたのだが、彼の笑顔を見て彼に抱きしめられたら、逆に安心して満たされた気持ちになった。
園子は、改めてやっぱり彼のことが大好きだと思った。
いずれちゃんと考えて別れなくてはいけないとしても、もう少しだけ、もう少しでいいから彼といたいと思った。


「しかし家が近いって言ってもさ、もうこの部屋に呼び出すように簡単にはいかないのがちょっと淋しいな」
と彼が部屋の中を振り返って言った。
園子も、思い出深いこの部屋のことがとても愛しく思えた。


園子が持ってきた合鍵を彼に返すと、彼はスーツの内ポケットから名刺入れを出した。
「僕の名前を教えなかったのはね、検索したりして僕に先入観を持たないで欲しいと思ったからだったんだ。でも園子は先入観なんてあってもなくても僕のこと好きになってくれそうだって、もうわかった」
彼はそう言って、革ケースから取り出した自分の名刺を園子に渡した。
そこに書かれた名前を見て─── 園子はびっくりした。
とても有名な人だったのだ。
彼の書くさまざまなものの中には、園子の好きなものもいくつも含まれていた。


園子が驚き過ぎて声も出せずにいると、彼は微笑んでもう一度園子にキスをした。
「じゃあとりあえず今夜メールする。東京に帰ったらすぐ会おう」
と園子の頭を撫でて、先に部屋を出て行った。


THE END




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