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どうして私だけ

アクティブ・カラーセラピスト りえさんの記事を読んだら、どうしても観たくなってしまった映画。

主人公の凪沙は、性別違和を抱えて生きている。当たり前に感じている「わたし」を生きるだけのことに、多大な労力(コスト)を要する生活。そして「社会」からは「男」として認識され続ける。
苦しみ、葛藤を抱えながら、不器用にひたむきに生きる凪沙は美しい。

だけど、あまりに不器用で、その時々に真剣なのも分かるけど、人生ブレブレ。どうしてそっちにいってしまう?の連続が痛々しい。

そうなるのも必然で、これでいいって思っても、これじゃだめだが襲ってくる。自分にOKなんて出せない。出したつもりで頑張っても否定され続ける。苦しいループにからめとられている人生。

「なんで私だけ」そう言って号泣する場面でまず(涙)。

「なんで私だけ」の苦しみを抱えた人たちが出会う。それが、たとえ似たように見える苦しみであったとしても、普遍化や一般化できない「私だけ」の固有の絶望感をそれぞれが持っている。

「関係ないじゃろうが」


私には私だけが抱える苦しさがある。誰かがそこから救い出すことなんてできない。

できることは「分かる」や「私も」の共感ではなくて、「ただそこにある」ということ。それぞれが纏った「わたしだけ」の苦しさが、近づくことで溶け合って混ざり合う。そんな優しさの中で、少しだけ癒される救われる。そんな瞬間をつなぎ合わせて、人は生きている。

「私だけ」の苦しみは「私だけ」しか抱えることができなくて、苦しみも含めて「私だけ」の人生を全力で生き抜くしかない。
映画に出てくるバレエのシーンでは、踊ることと生きることがリンクして胸に迫る(涙)


もう一つ、この映画で強く感じたことがある。

それは、「母性は狂気だ」ということ。

狂気あるいは、凶器。

子どものために、愛だと思って自分を犠牲にする。そうしなくてはいけないと思って、自分の大切な何かを捧げる。

「あなたのために」

それは、見返りを求めているわけではない無償の愛なのかもしれないけれど、自分の人生に見切りをつけて子どもの人生に過剰な期待を託す無責任な行為でもある。

「頼んでない」

してもらったことに感謝しないわけではないけれど、自分を犠牲にして、苦しそうな顔をしている人に幸せなんて語れない。

まずは自分が幸せにならなくてはいけないのだ。

自分の幸せよりも子どもの幸せを願う母性は、現実から乖離していく狂気だ。

それでも大切な存在として受け取ったものがたくさんあるから

「見ててね」の言葉に救われる(涙)

微妙なネタバレ感もある感想ですが、なんか、そんなことをぼんやりと感じたのでした。


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