有能とか優秀とかそれ以外の

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わたしは自分の足で立てるようになる…!立つようになる!
終わった後の外の空を眺めながら、少しずつながらも、自分の視界が数年前とは変わってきていることに気づいてる。


独立してすごいね(実際にうまくいっているかどうかは別として、組織に所属するという選択肢を選ばないで仕事しようとしていることに対して)とか、そうやってやれるだけ能力があるんだと思うとか言ってくれることがある。

「ありがとう」と素直に返すことにしているが、どこか違うような気がしている。

私には能力があるわけでも、なんでもなく、ただやれることをやっていきたい。むしろ、そういう価値観や評価軸を超えたところにいたい。

優秀とか有能とか、そういう評価軸が怖くなっている。

人のために一生懸命がんばりたい気持ちが自分にはある。もちろん「優秀に」人のために誰かのために貢献したい。けれど、心はそれらに対してシクシクしている。考えるだけでもう、疲弊している。

どうやってその軸から抜け出せないか模索している。

子どものころから、頑張ってきて、そんなに優秀ではないが、頑張るとそれなりに評価されることもあった。けれど、今、もう私の人生は限界にきている。

私は4月~いよいよ組織に所属しない働き方で生きようとしている。

フリーランスとか独立とか、個人事業とか、開業とか名前で言うとそんなところかもしれない。その生き方は、ほんと甘くなかった。この半年、痛感している。

けれど、組織や集団に戻ると、「優秀」とか「有能」の評価軸が待っているような気がしている。それらの中で動くことが実はもうこわい。子どものころからの心が疲弊して、シクシク泣き出すのだ。いったい、私はどんなふうに生きたらいいのか、今でも模索中だ。

誰かが立てた評価軸の中で生きることがただひたすらこわい。自分にも人にもそれらが課せられない環境で生きたい。

それはどんな場所なのか、まだわからない。わかっていない。見えていない。

私にはただ、できることしかできない。それははっきりしている。

頑張ることは時々ならできる。なるべく頑張り続けない働き方でいかないと無理だ。

昨日、ふくむすび会のセミナーで、金沢でウーマンスタイルという株式会社を経営している成田さんという女性のお話を聞いた。

起業から数年の立ち上げ期から、今はすでに11年を迎え、数年前にある「有能な人」を雇ったのだそうだ。私は、その話を聞いてから、どこか胸が痛くなった。

結局、その有能な人は辞めたのだが、有能であるがゆえ、会社の売り上げを伸ばすとともに、社内の人間関係をギクシャクさせる一つのきっかけともなってしまった。

成田さんは「私がその人に依存してしまっていた」と反省した。成田さんのお話はどれも、起業時のものも、その後の展開も引き込まれるものだったが、私はどの話よりも、そこに引き込まれた。

成田さんが2年間、寝るのもつらくて、会社に出社するのもつらくて、というエピソードに、胸が締め付けられるようだった。でもそのことを語る優しくて柔らかい表情に引き込まれた。

たったその数分以内で語る苦悩に、ひきつけられた。

ほかにも、40前に就職して夜遅く帰ってきて子どもたちがいつもふりかけご飯で罪悪感がして、というその一言にも一瞬でひきつけられた。「魂はディテールに宿る」というような言葉があったと思うが、たった一つの情景にさまざまな感情、背景が物語られる。そんな苦しみのようなでも、人生のスパイスにもなっていく一瞬にわたしはひきつけられてしまう。


このセミナーが終わった後、知り合いのデザイナーさんとカフェで話しながら、彼女はどの話も非常に参考になるし、わかるわかる、という感じで聞いていたと言っていた。

私はどっさりお金が稼ぎたいわけでも(もちろん、必要なお金がほしい)、一国一城の主になりたいんだ!社長になりたいんだ!とか世の中を変えてやる!的な野望もなくて、とにかく、組織で働くことに疲れてしまっている。でも、働きたいという気持ちや希望を捨てたわけではない。私は私にできることや、やりたいことをして生きていきたい。

それは、優秀とか有能とかそういった軸とは別のところで生きていきたい。


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物書き。新聞記者4年、考古学の世界(埋蔵文化財)7年、フリーライター4年。子どものころから古いモノと書くことが好き。
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