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子供を産んでわたしは自分自身を諦めてしまったのかという問い

最近こどもを産んだ友人の家に、お祝いを兼ねてお邪魔した。

1歳を超えて、すっかりベビーからキッズへと変貌を遂げる息子に比べると、生まれたてのその子は小さくて柔らかくて、ああ赤ちゃんだ、と抱かせてもらった腕が緊張した。息子を抱く手は、随分とこなれてきたもので、抱かれる息子も、立ち抱っこの時でさえ、腹筋を使って、パイをちうちうしてきたりと随分こなれた事を思うと、子供の成長って本当にあっという間なのだな、と思う。

一方で、私の目を捉えて離さなかったのは、2ヶ月前に子を産んだはずの友人の姿だった。

髪はしっかりとセットされ、肌もぷるぷる、メイクも産前と変わらず彼女に似合ったカラーで頬も唇も色がのっている。そして極め付けは、海外セレブのような洗練されたタイトな黒いトップス!大好きな友人をこんな風に全身を観察するような目で見てしまっている自分に嫌気がさしながら、全くたるみの残っていないウエストを確かめずにはいられなかった。

翻って、わたしはどうだ。

子を産んで、もう一年と半年も経とうとするのに、まだ体重は産前の体重に戻っていない。しつこく残る、というより日々成長し続ける体のたるみと贅肉を隠すために、上も下もオーバーサイズの服で隠す日々。

髪の毛は、邪魔だ、というその理由だけで、毎日変わらぬ一本結び。こなれようなどと思わぬズボラさなので、ほんとのただの一本結び。時々、寝癖がついていると、いい感じのゆる巻風!と喜ぶ始末。

メイクはマスク時代を言い訳に、どんどん手が抜かれ、下地、パウダー、眉毛、以上終わり。

自然体、ナチュラルメイク、ヌケ感…
そんな言葉で褒められたいのではない。
本当にただただ、自分にズボラなまま、時が過ぎてしまっているのだ。

子供を産んで、わたしはわたしを諦めすぎた、そう思う。あらゆることを、子育てを理由に、いや言い訳に、手を抜くことを自分に許し。

結果として、いま、だらしない、自分で自分を諦めた女が出来上がってしまった。

子供を産んだから、メイクをしちゃいけないとか、タイトな服を着ちゃいけないとか、誰が言った?綺麗なメイクを、綺麗な髪を、綺麗な服を着ているから子育てに手を抜いてるなんて、誰が言った?

わたしは、わたしを諦めることで、自分のことよりも子育てを優先しているいい母親、という考え方に救いを求めていたんじゃないか。

子育ても手を抜かず、自分にも手を抜かず、それでいて、自然体で、まったく苦しそうに見えない世の母親たちを見て、自分の甘さを思い知った。

むかし、私が高校生だった頃。
母に、なんとはなしに掛けた言葉。
「友人のお母さんは髪も肌も綺麗で痩せていて、いつも綺麗な格好をしている。あなたは、どうしてそうじゃないの?」
母は泣いて怒った。
「あの人みたいに働かず、旦那さんのお金で化粧品も服も、美容院も好きな時に好きなようにいける生活だったら、私も綺麗だったよ!」
そして、
「あなた達を必死で育てるために、私は、寝る間も惜しんで働いて。悔しい。」と。

母は昔、街の広報誌の表紙を飾ったり、秘書業をしていたりと、容姿には少し自信があったであろうから、私のこの言葉は地雷を思いっきり踏んでしまった。

20年近く経つ今も、忘れられないやりとり。

あの時の問いかけを、いま、わたしはわたし自身に投げかけている。

あの子は子供を産んでも洗練されて綺麗なのに、あなたはどうしてどんどん所帯染みて、だらしなく、なっていくの?

足りないものはなんだろうか。夫の協力?両家の親の助け?それともお金?

一つだけ、確かなことは、子育てを逃げ道にして、わたしがわたしを諦める事を自分に許してしまった事。

あの子と、私の差を作ったのは、他でもない、私自身なのだ。

どう浮上するか、そろそろ本気入れて、考えよう。

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