見出し画像

マタイによる福音書*「『旅』の終わり」150周年 記念ミサ

(そこで、イエスは口を開き、教えられた。)

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。

あなたがより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

あなたがたは地の塩である。

だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

もはや、何の役にも立たず、外に出て投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。

山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

---------------
マタイによる福音書 5.2、11-16
「『旅』の終わり」150周年 記念ミサ
---------------

今日は浦上教会で聖霊降臨の御ミサとは別に、午後から「『旅』の終わり」150周年記念ミサが捧げられました。

浦上四番崩れによって信徒たちが総流配となり、その後禁教令が解かれてから、150年経ったことを記念するものです。

流配先で殉教したり、帰り道で力尽きた信徒も大勢いむした。命からがら帰郷しても、浦上の村は荒れ果てており、非常に厳しい暮らしが待っていたそうです。

それでも信仰の光を絶やさずに灯し続けられたのは、どんなときも神様が共にいてくださり、永遠の命への希望を示し続けてくださったからではないでしょうか。

どんなに目立たないちいさな光でも、光さえあれば、完全な暗闇になることはありません。

ささやかな光でも、みんなで持ち寄れば、もっと明るく照らすことができるかもしれません。

わたしたちも、自分に灯せるサイズの光を手に、これからもともに歩むことができますように。    


かつては長崎の神学校や修道院で受け継がれてきた、手編みのロザリオ「長崎編み」。伝統を受け継いでいけるよう、ひと目ひと目、祈りを込めて編み続けたいと思います。