自分の命よりも大事なものがあるということ 〜言葉に導かれた3年間を振り返って〜
「実は嫁さん、妊娠してるんです。5月が予定日」
同期にそう告げられたのは、冬の終わり。
バリバリ体育会系、ガタイもタッパもある、ふだんはヨイショと見上げないと目が合わない男。
居酒屋の椅子でかがみ込みながらスマートフォンを覗き込み、ちまちま画面を操作する。
「このアプリで赤ちゃんが見られるんです」
「赤ちゃんが?」
見ると、「トツキトオカ」と呼ばれるアプリのなかで、「お腹の中にいるであろうサイズの赤ちゃん」がふわふわ浮かんでいた。
「赤ちゃん」をタップすると、セリフが出る。
👶🏻パパ、会えるのが楽しみだよ
👶🏻生まれたら、お歌を歌ってね
「うんうん、そうかそうか🥰かわいい、ほんとこれ、延々とタップしてられる」
普段は無口な彼がこんなにペラペラ話すところも、強面のでかい男の目尻がこんなにも下がっているところも、私は初めて見た。
「デレデレ」というのはこういう顔を言うのか。
しかも相手は「アプリの中の赤ちゃん」の言葉である。
勿論それは、アプリの赤ちゃんを介した、「嫁さんのお腹の中の実際の赤ちゃん」なわけではあるが、実際に子が産まれて話したら発狂するのではないないか?という勢いがあった。
(のちに自分たちもトツキトオカをインストールし、赤ちゃんをタップして発狂していたのは言うまでもない)
はぁ、赤ちゃんってすげぇ。
その次の瞬間、ふっと、ある考えが降りてきた。
夫の「お父さん」の顔も、見てみたいなぁ。
目尻をさげて、デレデレして、赤ちゃんを抱っこする夫が、見てみたい。
やっぱり、こんな顔をするんだろうか?
想像とは全然違う「マタニティライフ」
それまで子どもをもつことに不安があった私のなかに、こんな気持ちが芽生えてから、少しあと。
心の準備、できました?とばかりに、お腹に赤ちゃんがやってきた!はい、すでに奇跡。
しかし、私を待っていたのは、想像していたよりも100000倍以上つらい妊婦生活。
それまで12時間Overで働いていた私の体とお腹の赤ちゃんは、あっという間に悲鳴をあげた。
「はやめにお休みに入ることにしたほうがいい」
そう私に言ったのは、弊社の管理職。
新学期がスタートしてまもなくのことだった。
突然の宣告に、帰路でメソメソ泣いた。
動けない、いつ休むともわからない、身重の人間なんて現場にはいらない。迷惑なお荷物なんだ。
実際問題ろくに仕事ができていない現状もあいまって、誰がそう言ったわけでもないのに、グルグル考え込んだ。
私に「強さ」をくれた、"あの会話"
そんな私の心はまるっと全部見通しだったのか、翌日、女性上司に呼び出された。
「猪狩さん、私たちはあなたがいらないとか、邪魔だとか思ってるわけじゃ、ないからね」
上司自身も、息子さんがいる。
妊娠中、無理に働きすぎて切迫流産になり、職場で大量出血。入院した経験があったのだった。
幸い息子さんは元気に生まれ、すくすく育って現在大学生。しかし、当時の働き方を後悔しているようだった。
「今はお腹の赤ちゃんが一番大事な時期。お腹の赤ちゃんを守れるのは、ママだけ。
産休育休で、まわりに迷惑かけるって思うかもしれない。けど、仕事に代わりはいても、お腹の赤ちゃんを守れるのはママしかいない。
ママはお子さん優先でいいんだよ。
猪狩さんは、元気な子どもを産んで、育てて、そして次のママたちにそれを返してあげて。
私もそうやって周りの先生に言われて、助けてもらって働いてきたから。そのぶんを猪狩さんに返す」
我慢した。我慢したけどだめで、ぽろっと目から涙が溢れた。
「ありがとうございます……」
「元気な赤ちゃん産んで、元気に戻ってきて。そしてその気持ちを、猪狩さんも後輩のママに返してあげてね」
秋を連れる雨が、しとしと降る9月
元気な男の子が、元気に産声をあげた。
立ち会い出産を選択し、いきむ私の頭の上で踊ったり声をかけたりしていた夫は、無事「お父さん」になった(踊ってると赤ちゃんに会えるなんて心底羨ましい)
「わあ……」
ふたりで、小さな小さな我が子を覗き込む。
私たち夫婦は、言葉を大事にして、言葉に助けられ、言葉と共に生きてきた。
お腹の子に対面したら、まずなんて言おう?
はじめましてかな?ありがとうかな?
そんなことも考えてもいた。
でも、ひとは、本当に感動すると、なーんにも、言葉なんて出てこない。温かい気持ちで心がいっぱいになる。
ただただ、そこに、尊い奇跡の塊がある。
それだけで、十分だった。
こんにちは、「お父さん」のあなた。
はじめて赤ちゃんを抱っこした夫は、「うわあ…」とか「ちいさ…」とか言いながら、目尻を極限まで下げて、デレデレデレデレしていた。
ああ、お父さんの顔だ。
新入生のあなたも見た。
恋人になったあなたも見た。
20歳のあなたも見た。
卒業式のあなたも、
社会人になったあなたも見た。
新郎のあなたも見た。
プレパパのあなたも見た。
お父さんのあなたも見られて、私は嬉しい。
え?私も?私の目尻も下がってる?
お母さんの顔、してるかな?
そうかもね、してるかもね。
でももう、妊娠も出産もこりごりだ。
二度と生みたくない。痛すぎる。
夫よ、次はあなたが産んでくれ。
(……数年後、またしても、新生児を抱っこしてデレデレデレデレする「あなた」が見られるということを、このときの私はまだ知らない……)
子が生まれ、母になり、9月で3年。
こんなにも言葉に溢れ、言葉を愛し、言葉を使って生きている私たちから一瞬で「言葉」を奪った長男坊。
口から生まれたのか???というくらい、よく喋る男にすくすく成長中だ。
いっぽうの私も、元気に職場復帰。
「はな先生〜!赤ちゃんのお誕生日おめでとうございます〜〜〜!」
大きな声で我が息子を祝ってくれるのは、受け持ちの生徒たち。
「お子さん熱あるんだって?すぐ帰っていいから!あとはこっちでやっとくから、お子さん優先で」
そう言ってあとの調整を引き受けて私を帰してくれるのは、主任。
そしてそんな、新しい生活にバタバタな私を支えてくれるのは、
育児と家事をこなし、「疲れちゃったら、ひとりでご飯食べてきていいんだからね」と声をかけてくれる夫。
「長男くんがそんなに喜んでくれるなら」と、好物のブドウを送ってくれたり、イラストや新幹線や電車のお手紙をくれたり、「かわいいねぇ」「大きくなったねぇ」と成長をともに見守ってくれる友人たち……。
生まれる前も、生まれてからも、子どもはたくさんの人たちの愛の言葉に包まれてすくすく育つ。
私も、まだ見ぬ後輩のママさんたちに「もらったもの」を返せるその日まで、険しい道なき道をゆく。
育児真っ只中の、よわっちい今の私にできるのは、こうしてひっそり、言葉を紡ぐことくらいなもんだ。
母として、妻として、先生として、私として。
3年分の「私」、おつかれさま。
4年目の、「新しい私」。また頑張ろうな。
長男坊、3歳のお誕生日おめでとう。
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猪狩はな 💙@hana_so14
https://twitter.com/hana_so14
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