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働くわたしの「価値」ってなんだろう

新規採用のとき、一度も休まないで出勤していた。


それは私が健康優良児で体も心もつよつよだった……


わけでは全くなく


熱があろうがしんどかろうが、無理矢理出勤していたからだ。

具合が悪い時は、解熱鎮痛剤を用法容量を無視して飲み、栄養ドリンクを常用。


睡眠が足りなければ小汚いトイレで居眠り。

年度の途中から学年が荒れ始めたときは、新規採用で、ちっこくて、弱そうな女性の教員である私を
舐めてかかり、わざとうるさくする生徒も何人もいた。



足を引っ張られて廊下を引きずられたこともある。


「今日は●組かぁ…やだなぁ」
「今日も授業にならなかった」
「行きたくないな……」


大先輩は私に言った。


「教員の価値なんて、そこに存在することだけ。自分の受け持ちの授業の1時間、そこにいて、生徒を見ていること。休み時間には廊下についていること。そこに存在するということが全部。いない人は無価値。」


「そこに存在するため」に、メソメソしながら、それでも、毎日出勤した。


🏃‍♀️


「おやすみをいただきます、すみません」


私は果たしてこの半年、何回このセリフを言っただろうか。


「代わりに授業に行っていただいて、ありがとうございます」

「長男が熱を出して」
「次男が入院することになって」
「いつもすみません」


授業に、学校に、存在しない私なんて、
何の価値もないよ


心のどこかで、私が言う。


とにかく存在していることだけに
価値があるのに
授業も他の人にお願いして
何日も休んで授業も遅れてるよね

迷惑だよね



そう言うのは、私。


私だけ。


私の中の大先輩が、腕を掴んで私を引っ張る。


お休みの連絡をいれたとき、そんなことを私に言う人など誰もいない。

「ママをしながら先生をしている人が職場にいるというのは、すごく価値のあることだと思っています」

「お母さんはお子さんのそばにいてあげてください、こちらはなんとかしますから」

「先生、お子さん、大丈夫ですか?無理しないでくださいね。うちの妹もよく熱出してたからわかります、ママ大変ですよね」


そこに存在することだけが、
教員の価値だろうか?


そんなことない。

もう1人の私が、一生懸命に声をあげる。


そんなわけ、ないじゃん!


大先輩は、私が育休中に、倒れて緊急搬送。一命は取り留めたが、長いリハビリが必要な身体になり、そのまま退職した。


休めないって思ってた。


休んじゃいけないって思ってた。


どんな状態でも
どんな体調でも


とにかくそこに存在していること
とにかくそこで授業をすること


それだけが「私の価値」だと思って働いてきた。


子どもを生んで
職場に復帰して


「そこに存在できない」時間を過ごす。


24時間働けますか?
風邪でも休めない人に……
そんな広告が淘汰されていく令和。


至る所で検温されて、熱があったら、風邪っぽかったら、休むように言われる昨今。


わたしが働いていることの「価値」って?


「そこに存在する」こと以上の価値を、わたしはわたしに見つけたい


そしたらもっと、強くなれる気がするね。


子どもたちからもらった風邪の身体を抱きしめて、今夜は眠ります。


おやすみなさい。










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