境界を引く

 
「時折、きみとおれが一つだったみたいな錯覚に陥るんだ」

 聞こえた声に、鉛筆を削る手を止めた。突拍子もないことを言った部長は、穏やかな顔で藍色の絵具を溶かしていく。
 
 夏休み初日の今日、朝から部室にいるのは自分たちだけだった。遠くに吹奏楽部が同じパートを延々と演奏するのが聞こえる。繰り返される一ヶ月と少しの幕開け。部屋は蒸すように暑い。部長が開け放った窓からは、ただただ生ぬるい風が入ってくるばかりだった。

「そう思ったことはないか?」

 部長の手が次の絵の具に伸びる。自分なら赤を挿すかなと僅かに思っていると、次に溶き皿に出てきたのはその色だった。あわてて口にしようと思っていた否定を飲み込んだ。

「おれは幾度もある」
 
 色を少し暗くするのだろう、部長は茶色の絵の具を手にとって、同じ皿に少しだけ載せていた。二つの色を混ぜながら、こちらの動揺を見透かすように視線を寄越す。
 
 そう、こんな風に思考の境界を見失ってしまうことはよくあった。赤い絵の具みたいに同じ思考のこともあれば、大海原から押し寄せる大波のような彼の思考にすっかり攫われてしまうこともある。
 たとえば、この春にコンテストに出す少女の絵を作っていた時。何か足りないと悩んでいると、教員の駐車場裏にある花壇まで手を引かれた。色鮮やかで、手折られていないブルーのビオラ。「おれならあの絵のためにここに来る」と部長がつぶやいた時には、もう駆け戻ってしまいそうだった。彼は絵の中で迷子になった少女を見て、この場所を、色を、花を選んだ。彼はただ手を引いただけだが、手の温度、歩く速度……些細なところからその理由がなだれ込んできて、描き足したいものが止めどなく溢れていた。シンクロしたと錯覚するほどだった。
 思考が拡張する感覚は、本当にたまらない。だからこうして、家でもできるというのにわざわざ学校まで出てきた。
 彼もそうだというのだろうか。
 
 部長は茶色の絵の具を仕舞い、藍色の溶き皿に筆をつけた。
 
「ずっと見つけられなかったヒントを、きみが運んできてくれたように思うんだ」
 
 白いトレーに張られた水面。その上に絵筆がそっと置かれ、離される。引き寄せられるように立ち上がり、部長の手元が見える位置まで移動した。もう一度藍色を掬った彼は、とんとん、とトレーの上から優しく筆を揺らす。水の上で水玉が不規則に模様を作った。
 
「知っているかわからないけれど」
 
 再び絵筆が水面と触れる。じわりと二つ、薄くいびつな円が描かれてにじむ。部長は頷いて、赤色の筆に取り替えた。茶色とまざり合ってできた赤紫色が、藍色の模様をゆっくりと押し広げていく。
 
「おれはきみがいるときしか色を使ったことがない」
 
 藍色と赤紫色の境目を、細い棒がすっとなぞる。海岸線みたいに緩やかなカーブが描かれた。二つの色はそれぞれの発色を保ったまま、同じ渦を作る。
 部長は筆を置くと、脇に置いていた紙を静かに水面につけた。人差し指で四隅を押さえてから剥がせば、水面の模様は紙に写される。マーブリングという。描き手の意図から離れたところで波が描く模様は、二度と再現できない。
 部長は週に一度ほど、マーブリングで作品を作っていた。そういえば、自分たち二年生が部室に来るようになってから始めたと耳にしたことがある。果たしてそれが、発言とつながっているのかはわからないが。
 
「ずっと物のカタチにしか興味がなかった。きみが持ち込んだ日暮れの海の絵……あれを見て、おれは『色』をここに置き忘れたのだと思った。カタチでは絶対にないのに、おれの理想がきみの絵にはあったんだ。色彩を使おうなんて思うようになったのはそれからだ」
 
 反対に、自分には輪郭への興味がとんとなかった。色と色の間に線を引いて区切ることを嫌っていた。
 部長が海の絵で色を思い出したというように、彼が描く様を横で見て、はじめて境界を引くことの意味を拾い上げることができた。区切るのではなくて、沿う――輪郭をそう認識するなら、自分もきっと彼と同じ線を描くと思った。ずっと前に諦めてしまったものを、彼が温め続けてくれていたように感じたのだ。
 
「きみならどうするかと、おれならどうするか。それを交互に考えているんだ。すると、少しだけ納得できるようになる」
 
きみとおれの境目に答えがある気がする。彼は続けてそう零す。
 ーー分かる気がした。

 出発が真逆だったはずなのに、部長と自分の思考の末端が似ていると思うことはよくある。手をめいっぱい伸ばした、その数ミリ先に彼は生きているのだと思う瞬間。たしかにそれは、見つからないと喚いていたヒントに出会えたのとほとんど同じだった。
 遥か遠い実力の画家ではダメだった。自分の身体の延長と錯覚してしまいそうな彼だったから、見つけたヒントを失わずに済んだ。
 
「きみとおれは使う道具も、出来上がる作品だってまるで違う。絶対的に他人だ。だけど、だからこそきみとおれが一つだったのではないかと、たまに思うんだ」
 
 きみも、そうだろう。
 こちらを見る瞳は、あまりに雄弁だった。
 
「だから、これが最後の夏だというのが、惜しくて惜しくてたまらない」
 
 そうだ、来年の春には、いや、それよりも前に部長はいなくなる。
 彼は、まだ乾く気配すらないマーブル模様をじっと見つめた。

 藍色に溶ける赤紫色。
 
 
 どうしたらいいだろう。
 錯覚してしまいたいのに。


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創作企画「土曜日の電球」より
お題「夏休み」「海岸線」をお借りしています。

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