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ルーツ。



先日、急に思い立って、北陸へ出かけた。
高速道路をスイスイと、休憩しながら片道約3時間。


実は、合間合間を見て、家系図を作っている。
母方のルーツが北陸なので、とある市役所へ謄本を取得しに行った。


今はいろんなサービスがあるから、謄本を代理で取得し、綺麗に家系図を作ってくれるサービスが存在するのだけれど、作りはじめた当初から、誰かに任せて作るのはなんとなく違う氣がして、乗数で増えていく直系のご先祖様の数だけ、役所を幾度となく訪れている。


こんなところで自分の知識とスキルが役立つとは思っていなかったのだけれど、わたしは元建築屋さんでCAD(キャド:図面を描くツールの総称)が使えるので業者さんに依頼することなく、無限に広がる2次元の画面上にツリー状の家系図を作成している。それに加え、ほんの2代遡るだけで急に現れる解読に難ありの古めかしい手書きの謄本たちを読み解いていけるのも、建築の許認可の申請業務において、形式ばった堅苦しくてわかりにくいだけの書類たちや、古くてかすれて読めなくなっている申請図書たちとにらめっこしていた経験が生きている…氣がする。


人生、無駄なことなんて何もないんだよな、と、つくづく実感する今日この頃。


郵送ではなく現地へ行って謄本を取得するのはお金もかかるし、かなり物好きな行動のように思われるのだけれど、『家系図を作る』という理由がなければきっと訪れることのなかった、見たことも行ったこともない場所に出かけることは、どんなご縁か、単純におもしろい。そして自分と血のつながりのある誰かが、かつてその地に生き、生活していたことに想いを馳せることで、この命に感謝が生まれる。


実際、『嗚呼、この人たちがここで生きてくれたから、わたしがいるんだな』と、毎回感謝しかない。


会ったことも、ないのに。















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役所で遡れるだけ遡った結果わかったことは、母の父、つまりわたしの祖父の生家は、あるお寺が700年ほど前に建立されたことにより始まった地の、いわゆる門前町にあった、ということだ。今では工房などが多く存在し、古い街並みを残して観光地となっていた。現在の市場である『市』が催されるような場所だったらしく、商人か職人の家系だったのだろうかと想像しながら、祖父の育った町を目指した。


途中、道の駅のような場所があったので、土産物屋に入ったところ、とても品の良い、可愛らしいおばあさんがおまんじゅうの試食を差し出してくれたので、町のことをいろいろと聞いてみた。


すると、こんな会話になった。

『どこからいらしたんですか?』
『名古屋です。このあたりのことを知りたくて。祖父の生家がこの辺りのようで』
『そうですか。調べてるんですか?』
『はい。祖父は小さいころに亡くなったので、ほとんど憶えていませんし、実はわたし、祖母に会ったことがないんです。祖母について知っている人は、誰もいないんです』
『あなたのお母さんも(知らないの)ですか?』
『はい』
『そうでしたか。みんなね、知りたいと思う時っていうのは、だあれも、いなくなった時なんです。みいんなそうです。根掘り葉掘り聞いておけばよかったって、みいんな、思うんですよ。そんなもんです。わたしもです』



少し訛りのある言葉で、ゆっくりと優しく語られたその言葉は、わたしの中にただただ、落ちてきて、どこかに沁み込んでいった。


そう。
知りたいと思った時には、もういない。30年と親子だった父のことについてほとんど何も知らず、そしてもう、本人の口から語られることを永久に失ったあの日から、それは旧知の仲であるかのように、この身に馴染んでいる真実だった。


『お母さんの旧姓は?』
『〇〇です』
『そうですか…××というところに〇〇さんというお名前の方がねえ昔からいらっしゃるけど…』
『そうですか。場所がちょっと違いますね』
『そうですねえ。わたしの知っている人には、いないかもしれないです』
『ありがとうございます。あの、△△寺って、有名なんですね。あの辺りに籍があったようなので、きっと菩提寺だったのだと思います。あとで行ってみようかと思って』
『そうしたら、これ、地図をあげるから…ええっと、この場所がここでね…車はここに停められますよ』
『ありがとうございます』
『せっかくだから何かわかるといいけどね。もし何かわかったら、またこちらへ遊びに来たときに、聞かせてください』



終始ゆったり、マスクの下でも微笑みを絶やさず、優しく話すおばあさんだった。こんな人がもしおばあちゃんだったなら、わたしはおばあちゃん子になっただろうか。


取得した謄本によると、祖父と祖母の出身地は同じではなかった。生きている間に籍が他に移っている以上、このとき祖母の生存までは確認できなかった。あわよくば生きているかもしれないと思っているのだが、年齢を考えるとその確率は極めて低い。祖母の生存についてはまた、別の地へ行かなければならない、ということだけが、わかったばかりだった。


『もし何かわかったら、またこちらへ遊びに来たときに、聞かせてください』という言葉は、叶えられるのだろうか。


いとも簡単に寂寥を引き連れて来そうな考えを押しやって、おすすめのおまんじゅうをお土産に購入し、礼を伝え、お店を後にした。


















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荘厳。


そんな言葉がぴったりのお寺だった。あまりの大きさに面食らって、『入っていいのかしら…』と尻込みするほどだったが、案内所にいた女性に声をかけられて、『入っていいよね、そうよね』と氣を取り直し、門をくぐって拝観料を支払った。


ちなみに荘厳、という言葉は、【重々しさがあって立派なこと。見事でおごそかなこと。】という意味だが、元々は仏教用語で、【天蓋、瓔珞(ようらく)などで仏像、仏堂を飾ること。】という意味を持っている。


かなり歴史あるお寺だったが、このご時世もあり、平日だったこともあり、案内所の女性以外にすれ違った人は、帰るまでに一人もいなかった。


本堂が大きいためか、続く階段の横幅もかなり広かった。


祖父はわたしが小学生になる前に亡くなったため、残念ながら祖父のことは、ほとんど記憶にない。束の間、『嗚呼、祖父と、母と、3人でここに座って、この庭やあの藤棚を眺めながら、話をしてみたかったな』なんて夢想をしながら、贅沢すぎる階段を上った。


本堂に入ると、ひんやりとした空氣が、お焼香の香りと共に肌に触れた。見上げると『うわぁ…』と思わず声が漏れた。施された彫刻に見惚れながら進んだが、なぜだろう、不思議と、初めて来た氣がしなかった。


きっと、菩提寺だったと思います。ご先祖様をお守りいただいていたので、今、ここに、わたしが存在しています。ありがとうございます。



手を合わせて、しばらく、佇んでいた。


誰もいない。
誰もいない。





誰もいない。




しんと静まり返って、より茫漠たる何かが迫る堂内。


このときわたしが認知していた光は、『ここから先は入らないでください』と注意書きが貼られた柵の向こうの、御仏壇に灯る照明だけだった。


揺れるものもなければ、揺らすものも何もない。
当然、蠟燭も点いていない。


それなのに、キラリと光る何かを、幾度かこの目が捉えたのは。


きっと、氣のせいじゃない。



















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お寺を後にしたわたしは、謄本に記載されていた住所と全く同じ場所にGoogleマップで辿り着ける確率は如何ほどかと思いながらも、大きく外れることはないだろうと思い、示された生家があった場所までの道を歩いた。


お寺からまっすぐに続く、一本道。
賑わいとは程遠い、閑散とした観光地を、たまにすれ違う車を眺めながらのんびり歩いた。このご時世、そして平日の昼下がりであるから、おそらく目立ったのだろう。道行く車の運転席から視線を投げられることも度々あったが、その好奇が不躾であろうとも別に、氣にならなかった。石畳の一本道の両端には、屋根の低い古い長屋が連なっていて、そのほとんどは休業だったが、いくつかの土産物屋は開いていて、工房では作業の見学ができた。


一本道が終わるころ。
祖父の生家があった…と思しき場所には、別の名字の表札を掲げた、比較的新しい、ありふれた戸建ての住宅が建っていた。人目が憚られたため、こっそりとその家が入るように、街並みの写真を撮った。


その写真は人が見たら、何この写真、というような、なんの変哲もない面白味も味氣もない、寂れた街並みの写真だ。でも。


見ただけでふっと、笑んでしまうような、誰かにとって固有の意味を持った、どう見てもガラクタみたいな写真が、きっと、世界には溢れているんだろうなと思い、『おじいちゃん、来てみたよ』、なんてつぶやいて、ふっと笑った。














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帰りの高速道路に乗り込む直前のことだった。


『あ…お米買えばよかった』


お米が美味しいところだから、それくらい探してみてもよかったのに、その時分になって思い出した。まあいっか、また来ればいいやと、多少の疲れもあったせいかそのまま、高速の入口へ車を走らせた。


高速に乗ってすぐのSAで休憩した。


馴染みのない北陸のナンバープレートたちを横目に通り抜けて駐車し、飲み物を買いに車を降りた。


みんなどこから来て、何をしに、どこへ行くんだろう。


跡取りだったはずの祖父は、なぜ生家を出たのだろう。なぜ生まれ育った町を、離れたのだろう。今わたしが、生まれ育った町を出て行こうとしているそれと、同じなのだろうか。


聴いてみたい多くのことが去来しては、エンジンをかけたままの車の音、SAを出入りする車の走行音に、消えていく。


祖父にとっての正解も真実も、探す手段が見当たらない。


お店に入るといきなり、『地産地消コーナー!美味しいものをお土産に!』という文字が目に入った。野菜やお茶の中に紛れて、抱えるくらいの大きさの茶色い袋が見えた。『あれってもしかして…』と思い見に行くと、なんと一週間前に精米したばかりのお米だった。スーパーのように大量にあったわけでなく、3つだけ。意識したことがなかっただけなのかもしれないが、SAでお米が売っているところを、わたしは見たことがなかった。


実家に帰ったり親戚の家に行くと、母もおじも、おばも、お茶菓子などでもてなしてくれるものだ。何かしてあげたくなってしまう氣持ちはとてもよくわかるし、ありがたいなと思う。


『…これは、ご先祖様からの、それですか?』


なんだか笑えてしまって、マスクなんて大嫌いだけど、マスクをしていてよかったと思った。


こういうことに根拠なんていらないのかもしれない。理由なんていらないのかもしれない。でも、きっとそうだと思えるくらい、なんだか愛されているような氣がして、ただ、嬉しかったんだ。

















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6月5日。
毎年この日は、感謝の日だ。


自分の誕生日には、母親に、生んでくれてありがとうと感謝するけれど、今日は母親に、生まれてきてくれてありがとう、と感謝する日。


昨晩。
夜な夜な、眠たい目をこすって手紙を書いた。


『今度、■■県へ一緒に行きませんか。あなたにとって母親は、想い出も何もない人かもしれませんが、わたしにとっては、あなたを生んでくれた人で、ありがたい人のひとりです。縁(ゆかり)のある地へ行って、ありがとうが言いたいのです』


『逢ってみたい人だ』とは、母の生い立ちを想うと、書けなかった。


この手紙の返事が Yes なのか No なのかは、わからない。どう調べたって、どんな人だったのか、どんな人生を送ったのかなんて、わからない可能性のほうが高いだろう。


でも。


何もわからなくても、生んでくれただけで、感謝しかない。それはわたしが今、とてつもなく幸せだから、そう思えることなんだろう。幸せだと思えるようになったから、この命に、なくてはならない人だったと、氣づけた。何も知らない人だけど、たとえどんなにひどい人だったとしても、わたしにはありがとうしか、言えない。


無理にとはもちろん言わないけれど、きっと、母はこの氣持ちに、共鳴してくれるんじゃないか。そんな期待をしてしまうのは、愚かなことだろうか。


一泊旅行とセットにして釣ってみようか。美味しいものでも食べに行こうよ、って。


そんなことを想いながらここまで書いて、花束の予約時間が差し迫っていることに氣づく。数分後にはこの note をアップして、巻かねばならぬ。嗚呼いや、とりあえず保存して、電車の中で公開ボタンをポチっとしよう。





バッグに入れた手紙と共に。





わたしは玄関の、ドアを開ける。
















(ノンフィクション)





flag *** hana


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