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『モモ』に学んだ遊びと友だち

私の好きな『モモ』について書きました。
【ミヒャエル・エンデ著『モモ』】


モモとの出会い

私が『モモ』と出会ったのは小学校の図書室でした。エンデの『魔法のカクテル』を読み終えて、次はどれを読もうかと横に並んでいた『モモ』になんとなく手を伸ばした、最初はただそれだけでした。

オレンジ色に縁取られた表紙に、他の本とは少し様子が違う予感を感じたのを覚えています。見慣れない街並みを歩く、くしゃくしゃでボロボロの後ろ姿がなんだか気になりました。

モモの生活

『モモ』の主人公は小さい女の子です。名前はモモ。身寄りがなく、さびれた円形劇場跡に一人で住んでいます。物語の舞台は少し昔のヨーロッパのようです。

モモに話を聞いてもらうと悩みが解決する。そう聞きつけて、話を聞いてもらいたい人はモモに話を聞いてもらっていました。モモは友だちから食べ物をわけてもらったり、みんなで集まって楽しく話をしたり、貧乏でもつつましく、助け合って生活していました。物は少なくとも互いに出来ることをすればなんとかやっていけたのです。

そんなモモの世界に灰色の男たちという時間泥棒が現れます。灰色の男たちは人生の時間を計算して、限りある時間を節約することを人々に勧めて周ります。

時間を節約するようになった人たちはどこか様子がおかしくなります。急に世界がつまらなくなったように不機嫌でイライラとしはじめるのです。

友だちの様子がおかしいと気づいたモモたちは行動を起こしますが、灰色の男たちによって邪魔されて失敗に終わります。モモが自分達の計画に邪魔だと気づいた灰色の男たちは、モモを友だちから引き離し、ひとりぼっちにさせるよう仕向けます。

どこにもいないモモ

当たり前の話ですが私達の世界にはモモが居ません。というのは、人の話を聞くのが得意な人は私達の世界にも居ますが、モモほど人の話を聞くのが上手な人を見たことがないということです。

モモは私情をはさまず、職業や生まれの色眼鏡をかけることもなく、自分の時間を惜しみなく相手に分け与えてくれます。モモからは時間への執着や欲望はほとんどないように見えます。普通の人なら自分のことがまず大切です。でもモモはそうではなかった。普通の人が持っているものを持っていない、その究極で永遠の存在として考え出されたのがモモだった、そんなふうに私には思えます。



無口な人の心情

子どもの時から好きな登場人物はベッポでした。

彼は質問をじっくり考えるのです。(中略)こたえが必要なときには、どう答えるべきか、時間をかけて考えます。[4章 無口なおじいさんとおしゃべりな若者]

私もベッポのように、自分の気持ちを言葉にするのに時間がかかっていたので、子どもの頃は特に友だちとの会話に出遅れて自分の気持ちを言いそびれてしまうことがありました。今の私なら、返事に時間がかかると先に伝えたり、適当に答えて会話の流れにのったりできるでしょうが、当時は流れについていくのに必死でした。

モモのように返事に時間がかかることをわかって待ってくれる人がいたらなあと小学生の私はベッポをうらやましく思ったものです。誰にも言えない話をモモに打ち明けたくなりました。

彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりうるうそのせいなのだ、というのです。[4章 無口なおじいさんとおしゃべりな若もの]

これは私がいつも、そうだよなぁと頷きながら読むところです。大人になって働いていると、周りに合わせることが大事になりますよね。そして本当はそう思っていないことでも同調してしまう。でもそうして簡単な嘘を積み重ねていくと心はだんだん荒んでいってしまうのです。


モモが居ると遊びが楽しくなる?


『モモ』の中で一番不思議に思っていたことがあります。それはモモが居ると遊びが楽しくなることでした。『モモ』には時間の秘密について、マイスター・ホラとモモの会話中にはっきりと書かれていますが、遊びや物語とモモの関係についてはなぜそうなるのかまでは触れていません。

モモが居るとなぜ空想に羽が生えたようになるのでしょうか。それはモモの特性に起因していると私は思います。
モモは普通の人が話を聞くやり方とは違うやり方で相手の心の中を見ることができます。普通の人なら少しずつ相手の様子を伺いながら会話をしたり一緒に何かをしたりして相手のことを知り、少しずつ仲良くなっていきますよね。

モモは、普通の人が少しずつ見れるようになるものを鏡に映したように正確に見せることができたのです。

このことは、モモとの遊びや物語の地盤を固く、しっかりとしたものにしてくれたのでした。誰でも自分を知ってくれている人がその場で見守ってくれていると、緊張がとれてのびのびとすることができますよね。

モモはその人の全部を見ていますから、もう隠し事をしなくとも、肩肘をはってがんばらなくともいいのです。そんな居心地のいい空間でなら自分の素顔を見せても楽しく遊べそうです。

全く知らない子といきなり一緒に遊んだとします。例えばおままごとをしたとしましょう。誰が何の役をするか決めた後は、遊びの中で誰が何をするか、一緒に遊んでいる相手に承認を受けながら演じていきます。そうしてその時にしかできない物語を作っていきます。

私達、人間は遊びの中でお互いの行動や発言を認め合い、結果として友だちができていたのではないでしょうか。「モモが居ると遊びや物語がうまくいく」、このことは人間にとっての、友だちの存在の大切さを物語っている。私にはそんなふうに思えました。

モモにとっての友だち

『モモ』には「友だち」という言葉が何回も出てきます。私の中では友だちって曖昧で不確かな概念です。こっちが友だちだと思っていても、あっちは友だちだと思っていないかもしれない。そんな不確かな関係では、その人を本当に信じていいのか、自分の本当の気持ちを伝えていいものか、わからなくてなってしまう人も居ると思います。

「でもあたしの友だちなら、あたしは好きよ」とモモは言いました。[第7章 友だちの訪問と敵の訪問]

モモのこの一言には、友だちへの姿勢が現れています。相手に何かを求めるわけでもなく、何かをさせようとすることもなく、ただ一緒に居て時間を共有する。たったそれだけのシンプルな関係がモモにとっての友だちだったのです。


信じることの意味

人はなぜ宗教を信じるのでしょうか?日本では宗教がどこか他人事のような存在です。私もクリスチャンの友人に対して、なんで宗教を信じているのか不思議でした。そんな私の意識が変わったのはキリスト教学という大学の必修授業でした。

キリスト教について教授が説く授業に、まるで布教されているような不思議な感覚でしたが、宗教に入る人の気持ちがわかった気がしました。

人は本当に困ったとき、なにか助けてくれるものがあるなら、なんでもいいからすがりたい、信じたいと思うのだと、私は思います。現代では食や疫病に困ることもそうなくなり、宗教はそんなに必要とされていませんが、それでも何かを信じたい、信じて心を落ち着かせたいという人は居るのだと思います。

信じることで私達の世界は強固になっていきます。当たり前と思っている世界は、実は私達がこうだと決めた慣習や法律、常識がもとになって出来ています。外国に行ったり、時代が変わったりすると世界が全く違うように感じられるのはそのおかげです。

心の中の美しさ

『モモ』を読み終わるといつもラストにドキドキして、それと同時にあのなぞは何だったのかと不思議になります。どこにもない家でマイスター・ホラとモモが時間のなぞについて話しているシーンは『モモ』の一番の見所だと私は思います。

私達が当たり前に受け取っている時間、そして時間が心に降り注ぐ様を美しく描写しています。その美しさを想像すると、私達が過ごしている時間、そして持っている心が当たり前のものではないことを思い出させてくれます。


小さな少女の成長

モモは当初、物語の中で徹底して受け身でした。ところが、友だちを救いたいと心の底から思ったとき、受け身から主体へと変わっていきます。

受け身でいたモモが友だちのために立ち上がり、モモに自分を乗せて一緒にハラハラドキドキ戦う。

実は私も、親友だと思っていた子に裏切られてやるせない気持ちになった時にこの本を読みました。そしてモモみたいに変わらなきゃなと小学生ながらに思った覚えがあります。そして少し大人になった気がしました。


・友達ってなんなんだろうとやさぐれている人
・私なんて、、と自信をなくしている人
・なぞなぞが好きな人
・なんで自分に時間がないのか不思議な人

モモのことを知ったらちょっと心の中がほっこりするかもしれません。
だから、モモのところに行ってごらん!

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