映画『Fukushima50』批評―権力と責任の描かれ方―

昨年、色々と話題になった映画『新聞記者』と『空母いぶき』。いずれも「政治」に関連した描写を巡って、手放しに絶賛する方もいれば、逆に炎上騒動にも発展したり、中には本編を全く観ずして、自身の考えとは異なる思想の弾圧をおこなうヤカラも現れた。表現の自由だの、思想だの云々は広く議論してくれればいいと思うが、作品を観ずに作品を語るというのは、何ともいただけない。

そんな私が当時両者を観終えた時の率直な感想は、『新聞記者』に軍配が上がった。観る前の期待値は圧倒的に『空母いぶき』に、それこそ『シン・ゴジラ』の再来にも近い熱量を帯びた状態で鑑賞した。結果、見せられたのは、中井貴一がクリスマスの準備に追われながら、お菓子をブーツに詰めている姿で、観ている途中から頭がクラクラしてきた。おそらく脚本家の方がやりたかったことは、日常に非日常が侵食してくる恐怖であり、劇場版『機動警察パトレイバー2』なのだろう。しかし、それは恐ろしく上手くいっていなかった。

一番の見せ場である、中国改め架空の国との戦闘も、『バトルシップ』を彷彿とさせるほどの一本調子(バトルシップはあれはあれで意外と好きではあるけど)。結末もそんなことあるかい!と激しく突っ込みを入れたくなるようなご都合展開で、とにかく残念な作品だった。

一方の『新聞記者』は、題材が題材なだけあって、主演の松阪桃李は高く評価され、「ジャーナリズムのあるべき姿」を描いた作品としては、私は素直に感動できた。ただし、ここでの感動はあくまでも「理想のジャーナリズム」であって、現実のマスコミ連中の等身大を観ることができたとは微塵も感じていない。そのため、本作に本人役で登場する方々含め、本作をさも自分の功績のように賞賛してみせる一部の左界隈の人達には、正直怒りを覚えた。以上が、簡単ではあるが、昨年の代表的な2作品に対する私の感想である。

さて、いよいよ本題の『Fukushima50』である。これも先の2作と同様で、本編を観もせずに民主党批判作品だの何のと叩く方々は、信用ならない。監督はなんと『空母いぶき』の若松節朗さんなので、個人的には正直言えば、観たくないのである……。でも、観なければ語る資格はないというのが私のスタンスなので、観てきた。

先に簡単な結論から述べるなら、『空母いぶき』よりは良い。相当期待値を下げて足を運んだというのもあるが、やはり『シン・ゴジラ』以降の邦画である点が大きく、ゼロ年代の類型作品よりも見せ方のテンポが明らかに早い。原子力発電所が津波に襲われるシーン、地震によって揺さぶられるアクションなど、下手なスローも使うことなく(一か所あったかな)、スマートに見せている。発電所の惨状に対して、「メルトダウン」や「シーベルト」などの言葉はその当時よく聞いたが、実際にあの時の爆発や放水の中で、どのような最悪の事態に向かおうとしていたのかなど、原作の本を読めば分かることなのだろうが、画で見て分かりやすく理解できた点は良かったと思える。

さて、ここからは、気になった点である。冒頭、テロップで「事実にもとづく物語」と明記される。批判されている点としては、事実をベースにしながら、早くも歴史修正が行われているというものだが、これは別に本作に限ったことでは無いが、映画にはこれまでにも事実に基づく作品というものは山のように存在していて、それらはいずれも、ひとつ残らず脚色がされる。メディアの性質上、実際の出来事を100%再現は絶対不可能なので、そこだけを非難しても仕方がない気はする。「全て事実である」のテロップから始めれば問題だけど、そうであっても、ドキュメンタリー映画でさえ間に編集の手が入れば、それは事実とは切り離されてしまう。

そして次に物語の流れである。先ほど、『シン・ゴジラ』を意識したような早いテンポだと述べたが、細かい点でいえば、『シン・ゴジラ』では描かれなかったあるものが、本作には存在する。それは登場人物たちの家族パートと、子供時代の回想である。とりわけゼロ年代の邦画が酷く鈍重なイメージを帯びた要因の一つには、回想がある。これは恋愛ものでも、難病ものでもそうだが、こういう回想を入れる作品に限って、演技のおぼつかない子役を使っていてこちらが恥ずかしくなる。本作でも主人公と父親との関係性、アメリカ軍人のフクシマ愛を感じさせる子供時代の回想がそれぞれ挿入されるものの、結果的に振り返れば、そんなものはいちいち見せずとも物語は成立しているのである。むしろ、その間せっかく『シン・ゴジラ』級の推進力を得た物語速度がゼロになってしまうため、非常に退屈な画になっていると言わざるを得ない。家族を登場させるのも同様である。ただ、これでもまだ本作はずいぶんと減らした方であるとは思う。『シン・ゴジラ』はそれこそ岡本喜八監督作品を思わせるほど極端な作りになっているので、この時期のこの手の大味作品は、ゼロ年代に染みついてしまった呪いを少しずつ拭い取っていく期間なのだろう。
 あと、世界のニュース番組の見せ方がダサい。

では、いよいよ作品のテーマと結末の描き方について触れていく。
本作の中で実名で登場するのは、発電所事故の現場で指揮対応に当たった吉田昌郎(まさお)さんに限定している。総理を演じたのは佐野史郎さんであるが、具体的な実在の名前は出てこない。誰が考えてもそれは当時の首相・菅直人に間違いないのだが、そこはあくまで完全な事実ではなく、映画作品としての立ち位置を考慮しての結果らしい。確かにそれを言い出したら、ハリウッド映画における大統領の登場はきりがないので、そこは深くは触れない。
 
そしてそんな総理の描かれ方であるが、混乱する現場に突然視察に赴いてみせたり、海水の注入を中止させるなど、ことごとく現場にマイナスとなるような対応ばかりがクローズアップされる。これを当時の民主党政権批判として、また、現安倍政権を持ち上げるための陰謀とまで妄想に走る人もいるようであるが、結局それを理由に叩いている人は、反アベを貫きたいがあまり、肝心の権力批判にはさほど関心が無いようにこちらには見えてしまう。当時の政権が誰であれ、お上の無能っぷり、いつも現場が振り回されている現実を描くことは、決してずれたテーマではない。政権の無能描写を叩くなら、『新聞記者』も同様に叩かなければおかしい、と私は単純に思う。実際、本作は菅直人元首相も鑑賞しており、「この時期によく描いた作品だ」と評価しているという。

それでは、このままラストに向かって私は気持ちよく感動の涙が流せたのか、と聞かれれば、残念ながら否である。終わり良ければすべて良し――結末次第で作品の印象は大きく変わる。そして本作の締め方は、すべて良しの逆で、実にふわっとしている。これは『空母いぶき』と同じ臭いがするほどに酷似している。
物語の終盤、発電所がいよいよ爆発寸前で、チェルノブイリの比ではない被害(東日本全域に住めなくなるほど)が想定されるも、それは文字通り奇跡的に回避される。爆発回避の原因は現在も明確には分かっていないという、神の御加護とでも言いたくなるような急展開で緊迫感は収束する。それは映画という作品のクライマックスとしてはあまりにもあっけないのだが、それが事実であったのだからその意外さに我々は逆に驚かされる。

そしてその後スクリーンに映るのは、佐藤浩市と世界のケンワタナベ。W主演と言っても良い二人である。さて、この二人が何を最後に話すかと思えば、それはそれは長々と、ありがたい講釈を垂れてくれるわけです。
私は高畑勲監督の『平成狸合戦 ぽんぽこ』のラストにおける、第四の壁を壊して、環境保全をこちらに訴えかけてくる狸にも苛々してしまう性格なので、本作のずばり「まとめ」とでも言いたそうなトーンで語られる教訓と、これまでの使いまわし映像にはひたすら萎えた。そして時間は震災から3年飛んでしまい、問題の発電所等々の責任の所在についての説明は特にされないまま。確かに、責任の所在が曖昧なまま風化してしてしまうことは、日本的であるとよく批判されることだ。でも、その場合には、その「曖昧さ」というものを、きちんと現代の「問題」として問題提起して締めくくるのが筋ではないですか? 本作の終わり方は、満開の桜を背景に、美談で止まってしまっている。これはよろしくない。アメリカの「トモダチ」作戦も最後に持ってきているので、一番印象深くなるラストのイメージが、「決死隊の素晴らしさ」と「アメリカって良い奴らだよな」、になってしまうわけです。別にアメリカ賛美は否定しませんが、そこだけで止まるなよ! と思ってしまう。

そして最後の最後にテロップが出る。何が出るかはあえて書かないが、ひどく楽観的だなと私は感じた。ただ、価値観は人それぞれなので、その「あるもの」が、前を向いて復興に励んでいる人々の希望に成り得ている面も否定はできない。だが、繰り返し述べるが、ここまで描いてきたスケールに対して、結論があまりにもコンパクトにまとまり過ぎている。単純化され過ぎている。


本作はあくまでも当時のごくごく一部を描いたにすぎません。実際にシネフィルや当事者でもなければ、東日本大震災のドキュメンタリー映画などを観る機会はまずないでしょう。大抵は『シン・ゴジラ』や『君の名は。』などの娯楽に昇華された作品を観て終わりです。本作における一つの見方として、そうした数多くあるドキュメンタリー作品を観始めるきっかけとして、鑑賞してみるのがオススメかもしれません。 以上です。

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