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多忙経済

 機械や最近だとAIの進化によって、今まで人間が担ってきた仕事が代替され、人間は労働から解放されるはず? でも実際はみんな忙しい。忙しくてもやりがいがあればいい、意味ある成果が見えるなら全然いい。だがそうではなく、どうでもいい無意味な仕事ばかり後から後から湧いて迫ってくるので、同じ「忙しい」でも、それは無意味な忙しさであり、いわば報われない忙しさだからこそ、人々は二重の意味で疲労し、病んでいくことになる。さらにいえば、合理的に「そんな無意味な仕事要らないんじゃないですか」と提案しかけた矢先、「そんなことを言ったら職そのものが消滅し、自分自身も食っていけなくなる」と思い直し、言葉を引っ込める…。かくして苦しみは三重となる。
 なぜケインズの予測するようにならなかったか。
 人々が未熟だからではない。おそらく資本主義が原因だろう。
 みんながケインズのいうように週15時間労働になったらどうだろう。人々は自足し、ミニマリストになって、誰も消費をしなくなる。
 そうなると、資本主義としては困る。どんどん消費して、経済を回してもらわないと困る。
 経済はペイン(苦痛)をなくすものだが、資本主義的経済は、無意識のうちに、解消されたペインと同量のペインを別のところで生み出そうとする。人々を無駄に長時間、低賃金で、無駄な仕事に従事させる。そこで生み出されたストレスを、消費で解消させる。そうすれば、経済は回る。まさに「街は一日8時間以上働く人のためにある」である。人々が自足せず、音を上げない程度に、無駄な仕事でもとにかくこれに従事させて一定のストレスを与え続けることが、資本主義の存続にとって必要である。こういうわけで、長時間労働はなくならないのだろう。
 消費の場に目を移せば、コンビニやショッピングモールが好例である。見回りにはいいけどこれといって買いたいものはない。冷静にみたら買いたいと思える魅力的な商品は少ない。
 ただ、そういう商業形態が「成功」しているのは、多忙でストレスを抱えた、病的な労働大衆がいてくれるおかげである。彼らは「冷静」ではなく、ふだんの生活や労働、メディアの情報洪水などのせいで、疎外され不満足な心の状態にある。そんなつくられた「ネガティヴ」にもとづいて、それに駆動されるように消費に向かうので、おかげでコンビニやショッピングモールは日々繁盛できている。
 非本来的な心理状態じゃないと買ってくれない。それは商売としては本質的には失敗しているし、限界を迎えている。彼らはこういう一言でいえば多忙で疎外的な社会を追認する。その存続を無意識のうちに希ってしまう…。


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