お洋服を着ざるを得ない

『パンツをはいたサル』というようなタイトルの本がありましたね。

聖書の、アダムとイブが知恵の木の実を食べてしまってパラダイスから追放される逸話では、二人がプライベートな部分を葉っぱで隠したくなってしまったことが、恥の感覚の発生を仄めかしているともいわれます。

何で私たちは服を着るんだろう?と問われれば、恥ずかしさとか、他者への配慮とか、毛がないからとか、様々に服を着たくなる原動力といいますか、服を必要ならしめるものを探ろうとします。それが大事ではないとは言いませんが、それよりも考えた方がいいことがあるように思えます。

そもそも服の効用も様々です。保温、防護など身体の安全にかかわるものや、ステータスシンボルといった社会の階層化を意図するものもあれば、娯楽・息抜き的なものを通した自己のアイデンティティ確立・確認などなど。

服を必要ならしめているものや、機能・効能は実に多様で、それらをよく知れば、知らないでいるよりも私たちの世界は多少なりとも変わるかもしれません。願わくばよい方に。

ただ、この方法には盲点があります。

いかなる理由や目的があろうとも、現に私たちは服を着ているという事実をあまりにも当たり前のこととしてしまうのです。

何かいけないことがあるのでしょうか?

当たり前のこととすると、注意や感謝の念が向けられにくくなりますが、問題はそこではありません。勿論、ふと「服がなくなると困るよなー」と気付き、服の有難さを知ることは大切です。有難さを知らないでいると無駄遣いも増えることでしょう。モノを大切に扱おうとする気持ちも芽生えないでしょう。でも、当たり前にしてしまうことのおそろしさは少し回り道をして、大きくなって現れてきます。

「当たり前」ってかなり多くの人との共同作業で成り立っています。常識ってやつです。通常常識は同時代に生きる人々と共有します。地域的な遠近も大きな要素ではありますが、同じ日本でも、私たちは平安時代や弥生時代の人々と常識を共有しているとはあまり考えません。

何で服が必要なのか?と考える時、私たちは普通服のない状態を想像します。でも、どちらかというと、自分や同時代人が素っ裸で歩き回っているイメージよりも、昔々大昔の、いわゆる原始人みたいな”未開”の時代の生き物を思い、その時代であってもやっぱり服が必要となるに違いない要素を求めます。現代のイメージだとすぐ警察に捕まっちゃうんですよね。。。

でもね。

原始時代まで遡ろうが、人間って服を着ないで平気でいられたことってあったんだろうか?勿論品質や身体を覆う部分の多寡、「平気ではいられない」という気持ちは様々ではあるでしょうけど。

「人間は服を着る」という厳然たる事実に当たって考えてみてもいいのは、私たちは昔々からずぅーっと服を着てきた生き物なのではないか?ということ。いつ着始めたのか?はとりあえず横に置いておいて。

つまり、旧約聖書が書かれた頃の人々だって、別に服を着ていなかった時代を知っていたわけではないのではないか?と。

常識を共有してみるのです。

そうすることで、例えば聖書の逸話には、少し違った意図が潜んでいるように思えてきます。

普通に服を着ていた人が、普通に服を着ていた人に、そこで初めてプライベートな部分を隠したくなった人の話を書いたのはなぜ?

私には、アダムとイブという架空の人物たちの経験から彼らの気持ちを読み取りなさい、と言いたいわけではないように思えます。あの楽園に(無垢だった時代に)戻れたらなー、とか。そうではなく、どうひっくり返ったって、服なしではいられない。そんな性質の生き物ならではの問題が山ほどあることに、当時の人々は気付いていたのではないか?と。見栄であったり、恥ずかしさであったり、秘部を覗いてみたくなる衝動であったり。

昔々の人たちを、自分たちよりも大きく遅れていたと思い込むのはいかがなものか?いえいえ遅れていただなんて思ってません。知恵の木の実を食べたんです。きっと私たちの知らない秘密を知っているに違いありません。なんてのも、過去の過剰な神秘化、科学的合理的な現代との差別化を図ろうとする意図の現れでしょう。

あれ?

差別化しているのって大昔の人たちだけ?

私たちの知恵というものは、素晴らしい反面、避けがたく不完全なものでもある。聖書の逸話はそのようなメッセージを送ってくれているように思えます。

分かるためには分けます。分けることで形成される常識の中に私たちの祖先が入ってくる割合はどんどんと薄くなっている気がします。私たちの常識は同時代の私たちが合理的科学的実証的に確認したものです。

分けて切り離すことに慣れ過ぎてしまうと、その方法に依存し、どんなに住める領域が狭まっても、それを止めようとはしないものです。分けられる以上、分かち合える何者かは存在し続けるわけですから。割り当てられた領域が社会的に下層に位置するものであったとしても。

あまりに細かく分けられた領域に住んでいると、もはやたまにでも越境してみたいとは思わなくなります。階層差が存在するなら尚更です。逆に様々な不満やストレスを感じつつも頑張って築いた領域には、異物が侵入してくることを異常に嫌うようになります。孤立主義。保護主義。放っておいてくれというのも正当な権利です。

何が最も大きな壁になるのか?というと私たち一人一人の思い込みです。合理的に分ければ、それぞれの領域は理に適ったものとなるでしょう(個々人のフィーリングの違いなどはさておき)。しかし、その「理」なるものは誰のものなのでしょう?自然から賜った性質に基づいて分けているのだから自然や神さまのものでしょうか?いずれにしてもそう思うのは私たち一人一人です。

分けるやり方。当たり前を同時代人同士で合意していくやり方。これの難点は積極的に進めていける方の人々に躊躇(ためら)いがなくなってしまいがちなところです。分け方は合理的でも、分ける仕事が特定の人々の手にしか渡らないことを合理的に説明しきることはできません。たまたまなのですから。どこに生まれ落ちるか。今目に見えているもの、即ち、同時代の物事だけを相手にしていては、たまたまの威力を思い知ることはできません。歴史的経緯、時間的な繋がりを追うことで、「もしもこのイベントが起きていなかったら。。。」というような一回きりの現実の怖さ、残酷さが浮き彫りになるのです。

謙虚という言葉がありますが、与えられたものに感謝するというのであれば、それは時空を超えた全体に対してでなければあまり意味がありません。特定の時代や場所に範囲を区切るなら、物事はかなり明快でしょう。権利と義務。現に一人一人が抱えている問題もあたかも解決可能な(当たり前の)こととして扱ってしまえるのですから。不完全な自分を弁えるというのは、領域などお構いなしに、よって、不完全に実力を行使してしまうことを知ることであって、「私は不完全です」と言えることではありません。そんなことぐらいみんな分かってます。全てが繋がっている世の中で、どうしても境界線を引くように行動してしまわざるを得ない。そこがツライところなのです。

翻って、服を着るなんて何でもないことです。

好きな衣装を選んで思いもよらず弱者を痛めつけてしまうなんてことはほぼ起こりません(ナチスのユニフォームでトラウマを惹き起こさせたり、ZARAやユニクロ製品を作る工場での児童労働の問題などはありますが)。また、現代でも衣装によるステータス表示が様々な厳格さをもって実効性を持ち続けているところもあるでしょうが(ドレスコードとか)、服を着るという行為は概ね非暴力的といえます。そんなほぼ無害な行為でも、いや、特異的に無害な行為であるからこそ、思いを馳せれば、知らず知らず習慣化している私たちのものの考え方、整理の仕方について気付かせてくれるのかもしれません。

私たちはきっとずっとずっと昔から服を着てきている。それほどに生まれながらに社会的な生き物なのです。どんなに未開で野蛮に見えても。

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