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問題のすり替え

私がどうしてもイラついてしまうことはコレなのでは?

どうしても超えられないカベって、どうしても超えられないぐらいだから、かなり多くの人が分かっている。きっといつかは死ぬこととか、未来予測の正確さには限界があることとか。猜疑心や嫉妬心がついつい湧いてしまうこととか。

どうしても超えられないと分かっていることをいちいちしつこく考えるべきなのか?というと考えない方が賢いという場合もある。

とはいえ。

全く関係ない別の問題を見つけてきてはそれを解決して見せて、超えられないカベのことをちょっとでも誤魔化すことができるとか考えるのは大間違いではないのか?

なぜなら。

どうしても超えられないカベというのは絶対に消え去らないという意味で、私たちのとるありとあらゆる行動に必ず影響を与えているから。

何かを解決できたところでなくなったりはしない。

そういう現在の話よりも、どこかで生きているけれども目の前にはいないとか、まず顔を合わせることがないような人々とか、死んでしまってもうこの世にはいない人々との関係で、そういう人々を貶める感じになることが多いような気がして、それが傲慢と感じるのだ。

どうしても超えられないカベというのは、昔々から変わらずあって、今も昔も、人間全員で等しく、忸怩たる思いを多少なりとも味わわされているはず。それなのに、あたかも自分(たち)だけが苦しんでいるかのようになってしまう。つまり、全く別の問題へのすり替えというのは、特に、昔々の人々なら様々な事情(科学技術の進歩の度合いや社会制度の違いとか)により到底解決できなかった問題なんかを取り上げて解決して見せることで溜飲を下げるのだけれど、それって、自分(たち)の方が「進んでいる」、「価値が高い」と考え、解決できなかった人々について、同様の忸怩たる思いを分け合う人々、という目で見ず、図らずも哀れな遅れた人々と見下してしまうことになる。

細かい話?

多分。

それでもこの細かい話が案外大切。に思える。

存在しない人々のことであろうとも、丁寧に見てあげられるのか?あげられないのか?せめて弔う気持ちぐらいは持てるのか?持てないのか?

できない場合や全くそんなことなんて考えもしないような場合、実は、「まだ生きている人、ましてや定期不定期に顔を合わせるような人のことならきちんと扱えるさ。そんなの当たり前」という過信が生じている。つまり、まだこの世に存在している人々のことだってきちんとなんて扱えない可能性の方が圧倒的に増しているのだ。

私たちにうっかりはつきものだけれど、気付かなきゃならないうっかりというものもある。

いくら注意できているできていると信じたところで、実際に気を付けられているからこそ却って裏目に出てしまうことだってある。

できていると自信がある時こそさらなる警戒が求められる。

相互尊重の話なんだけれども。。。

細かいね。やっぱり。

こんなことにイラつくなら、イラつく奴の方がどうかしているのさ。


See you again!

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