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「戦争は絶対悪という意識が薄らいでいる」のは悪いことなのか? 歴史教育を考えてみた。

こんな記事がTwitterで話題になっています。

戦後75年を過ぎ、過去の戦争や悲劇の歴史について、若者が簡単に肯定的な姿勢を示すケースが目立っている。

という話です。

教育現場からも不安の声が上がっている。「戦争は絶対悪という意識が薄らいでいる」。千葉県の公立高校で公民科目を教える50代の男性教諭は、最近の生徒の印象をこう語る。(中略)「戦争経験者から怖さを聞いて育った世代は『戦争はやるな』が共通だったのに」と驚く。

ということが書かれています。

大前提として、私は決して戦争肯定論者ではありません。戦争は避けるべきだと思います。

でも、「戦争は絶対悪という意識」を安易に前提にするのはどうなのかと思います。
私は、教員で、世界史を専門としています。この件を出発点に、「歴史を学ぶ」とはどういうことか、考えたことをここに書いておきたいと思います。

サクッと結論を知りたい方は、「7 まとめ」を先に見てください。



1 「権力者の不正や戦争などにも理解を示そうとする」のは悪いことなのか?

成蹊大の野口雅弘教授(政治思想)は「最近の学生は人への優しさや寛容を重視するあまり、権力者の不正や戦争などにも理解を示そうとするのでは」と分析する。

とありますが、これはむしろ良い傾向ではないでしょうか。

もちろん、理解して「ということで、不正や戦争も仕方ない」で終わってしまうと、なかなか残念です。

権力者の発想を理解したうえで、戦争回避、不正抑止をどうすれば達成できるか?を議論する。そういう場を教育が担保していくべきだと思います。それができたら、相手のことを考える傾向にある「最近の学生」は非常に将来有望でしょう。

残念ながら、現実に不正をしたり、戦争に踏み切ったりする人はいます。例えば、中華人民共和国では、国の政府の指示の下、ウイグル人が強制収容されたり、民主主義の弾圧に抵抗する香港市民を逮捕したりといった事態が今も起きています。

そのなかで、0対100で「絶対悪」なるものを定め、それ以上の議論をしないというのでは、一生分かり合えません

もちろん戦争をしたり、人権を蹂躙したりする人と、真に分かり合うことなど、到底無理だとも思います。ただ、少なくとも単純に「戦争良くない」を念仏のように唱えても、相手の思考はおそらく変わりませんし、平和は実現しません。

戦争をする人の思考回路、事情、相手なりの解釈を知って、そのうえで戦争回避、平和構築を想像・創造・提案しようとする力が求められると思います。


2 嘘の情報を受け売りして良いという話とは違う。それはダメ。

東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は(中略)「(安易に)白黒をつけるのではなく、考え続けることが大切本音で議論できる場で、率直な意見を言い合う経験が必要だと伝えたい」と訴えている。

とありますが、ならば尚のこと、本音を述べてくれる「最近の学生」に眉をひそめることなく、率直な議論の場を提供すべきだと思います。

せっかく本音を言っているのに、それを「安易で短絡的だ」とバッサリ拒んでしまうと、学生たちは結局教員のことを忖度して、それらしいことを述べるだけになってしまいます。

もちろん、嘘の情報は精査しないといけません。安易に都合の良い1つの情報に飛びつかない冷静さが必要です。

そして、嘘だと分かった時点で、即座に持論を修正する柔軟性が重要であり、さらには修正する人を受け入れる周りの受容性が要ります。

人はどうしても都合の良い情報や、最初に見た情報を信じたり、勝手に無意識のうちに解釈したりするものなのです。

ベストセラーになった『FACTFULNESS』に、そのあたりのことは述べられていますね。

もちろん、最初から騙されない、偏見を持たないことが重要ですが、それだけでは実は無理があります。騙されることはあるのです。ここで重要になるのは、騙されたことに気づいたとき、即座に撤回・訂正することと、そうした訂正行為を許すことです。


3 「どうすれば悲劇的結末を回避して、平和を構築できるか?を考える場」としての歴史学習

東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は「皆で仲良くし、和を乱すべきではないと学んできた最近の大学生は『批判は良くない』と嫌う風潮がある」という。

と述べられていますが、むしろ「戦争良くない」一辺倒の言説に、疑問を投げかけている点で「最近の大学生」はある意味、和を乱しているのではないでしょうか。

私は、そこから議論が起きて、現実的な平和構築のあり方を探る段階に進めるなら、良い和の乱れだと思います。

無論、そこで「戦争は仕方ない」で終わってしまうのは、残念です。

そこは、教育の場の提供の仕方次第でしょう。和の乱れを、良い和の乱れにもっていくことが、教育者に求められていると思うのです。

戦争を始めた人・組織の思考回路を理解しようとする学生に向かって、「戦争を肯定するのか!」とか言って叩き、思考そのものを阻んでしまうと、現実的な平和構築の議論・提案まで進めません


この先は、年齢的には「若者たち」側にいる私の個人的な見解です。

たぶん「戦争を回避し、平和を構築する」というゴールを若者たちが捨てたわけではないのです。

ゴールは当然のこととして、ただ単に「戦争は嫌だ」と言い続けていたって仕方がないじゃないか。実際に、戦争をする人たちはどういう思考回路で、その決断をしたのか。そこを理解して、回避を模索するべきではないか。今後に活かすべきではないか。こういうことなのではないでしょうか。

「戦争は嫌だ」と言うだけで、万人が戦争をやめるなら、それでいいでしょう。ですが、非常に残念なことに、事態はそう単純ではないのです。

だからこそ、今もいがみ合い、殺し合う人たちがなぜそれを選んでいるのか。そこを理解し、なんとか戦争を止める。回避する。平和を構築する。その道を模索しなくてはなりません。

そういう高次元な議論まで教育が機会を提供できるか。そこにかかっていると思います。


4 「他者の合理性」を理解しようとするところから始まる歴史学習

自分の感覚では、到底理解できないことを理解しようとする。
「他者の合理性」を理解する。
社会学で求められる姿勢です。歴史を学ぶ上でもこの姿勢を大事にしたいと思っています。

ただ、「理解する」と「同意する/賛同する/容認する」は違います相手の思考を理解しようとしたうえで、そこに同意するかどうかは別の問題です。

それと、相手の思考、すなわち「他者の合理性」とは、あくまでも「他者」の持ち物であって、いくら頑張っても完全に理解することはできません。したがって、勝手に「他者の合理性」を理解しきった気になって、勝手に寄り添ったり哀れんだりするのは、かえって逆効果のリスクもあります。

つまり、「わかったような顔をするな!」と反発を受けるリスクです。

ですから、「他者の合理性」に耳を傾けつつ、私が理解した気になっている「合理性」は、あくまでも私が判断した「他者の合理性」の推測であって、いつまでも他者本人の声に耳を傾け、修正し続けないといけない。そういう謙虚さ、柔軟さが必要になります。

ちょうど、「最近の学生」と大きく括って、勝手に判断してしまわないのと同じです。

こうした視点をみんなが持っていたら、世の中、結構よくなるんじゃないかと思います。

歴史を学ぶ上では、まず、様々な立場からの「合理性」を想像することが重要だと思います。

例えば、AグループとBグループが戦った歴史なら、Aグループにとって、どういう合理性から「戦争」という選択肢を選んだのか。Bグループにとってはどうなのか。どこがどうズレた結果、戦うことになったのか。

また、各グループの構成員も当然一枚岩ではありません。いろんな意見があるのです。それも想像しましょう。そして、いろんな意見がある中で、最終的に「戦争」を選んだのはなぜなのか。どういう背景があるのか。そこを想像します。

こうした色々な目線を切り替えながら、「A vs. Bの戦争」を見ていく。それが歴史を学ぶという行為だと思います。

そして、重要なのは、今理解しようとしている「合理性」が誰の立場にとっての「合理性」なのか?を明確にすることです。

歴史とは、過去の出来事を抽出し、因果関係で結んで書き記したものです。したがって、書き手の価値観次第で、抽出する出来事は変わるし、解釈した因果関係も変わります

どんな書き手が、どういう価値観で書き記したのか。そこを想像して、色々な書き手の歴史に触れ、立体的に構築しないといけません。

ある人はこう言っているが、別のある人にとってはこうだった。そういう、それぞれなりの事象に対する思いの違いを拾っていく必要があります。

これが歴史を学ぶという行為だと思います。

その上で、自分にとって「合理性」のある解釈をすること。これも、もしかしたら歴史を学ぶ行為の一部かもしれません。

多数の歴史家たちの記述(それは研究者に限らず、様々な人たちの歴史解釈)に触れる。各々がどういう「合理性」に基づいて、過去を解釈したのか。それを整理する。虚偽に基づく記述に対しては、虚偽の部分を除いて捉えたり、なぜ虚偽が入り込んでしまったのか?を考えたりする。

そして、自分として納得のいく「合理性」に基づいて、解釈する。

その解釈が普遍的な唯一絶対の解釈だと思わないことが重要です。それは、あくまでも、「私にとって合理的な解釈」であって、違う解釈をする人もいるのです。そこを認めないといけません。


5 「歴史」と「政治」の境い目

そして、そのうえで「合理性」の異なる他者と折り合いをつける。これは厳密に言うと、政治の問題です。

岡田英弘が「歴史は法廷ではない」と言ったのは、こういうことだと思います(岡田英弘『歴史とはなにか』)。

つまり、歴史には、絶対悪とか、絶対正義とかいう存在はないのです。何が悪で、何が正義か?は、価値観次第なのです。

しかし、局面によっては、ある程度、価値観の違う人とも合意をしないといけない場面があります。戦後賠償に関する条約締結は、それの典型例です。

そういうときは政治の出番です。歴史とは多様です。ですが、局面によっては統一見解を出さないといけません。そこは歴史ではなく、政治が解決するのです。

歴史の世界では多様な解釈が認められます(事実と違うことを根拠にするのはダメですが)。でも政治の世界では、1つに絞らないといけないことがあります。その是非は、政治の問題であって、歴史の問題ではありません。

歴史の時間には、「こういう理屈で、こういう結論を下す人もいる」「でも、こういう理屈で、こういう別の結論を下す人もいる」ということを、沢山知ることが大事だと思います。


6 では、「戦争は仕方ない」論も受け入れるのか?

難しいのは、最終的に「結局、戦争は仕方ない。ドンパチやっちゃいましょう」という結論になるのを許すかどうか、です。

戦争を始めた人の思考回路を理解したとしても、同意はせず、「Aのこういう気持ちに至った背景は理解できる。Bがこういう風に判断した理由も見えてきた。だから、こういう措置をお互いにとっていれば、回避できたのではないか?」といった具合に、歴史のイフを想像する。

こういうことは、面白いし有意義だと思います。この経験は、将来の国際問題や一般生活におけるコンフリクト(葛藤)の防止・解決・軽減に活かせるかもしれません。

ただ一方で、「いや、これ無理でしょ、結局AとBが戦争したのはやむを得ないでしょ」と結論を下してしまうのも、受け入れないといけなくなります

私は、「平和で民主的な社会の形成者を育てる」という教育の最大の目的を考えれば、そういう結論になるのは避けたいなとは思います。ただ、その結論も認めないといけないというジレンマがあります。

ここは難しいところですが、それこそ、記事の小野寺拓也氏の言葉が示唆的です。

東京外国語大の小野寺拓也講師(ドイツ現代史)は(中略)「(安易に)白黒をつけるのではなく、考え続けることが大切。本音で議論できる場で、率直な意見を言い合う経験が必要だと伝えたい」と訴えている。

仮にどのような結論になったにせよ、最初からとにかく「戦争は嫌だ」で話を終わらせているよりは、相当学びになっているはずです。

「他者の合理性」を理解しようと、頭を使った体験自体が、その後に効いてくると思います。

そもそも、歴史学習の中で判断を下すのは、戦争全般に回避方法はあるか?ではなく、ある特定の戦争について回避方法はあったか?です。

その一事象に限らず、あらゆる戦争について、「回避する術はない」と結論付けるのは、論理の飛躍ではないか?と思います。

仮に「回避の術はなかった」という結論にいたったケースであっても、そこを強調しておいた方が良いだろうと思います。

あまり大きな結論を急がず、大きなレベルの話は、ずーっと長く議論し続けていく永遠のテーマとして、結論を出さないということです。


7 まとめ

長くなりましたが、要するにこういうことです。

最初から「戦争は悪だ」「戦争はやりたくない」とだけ考えるのではなく、実際に戦争をした人たちの思考回路を理解しようとするのは、それはそれでいいことではないか。

実際に戦争をした人たちの「他者の合理性」を理解しようとすること(決して賛同することと同義ではない)には、意味があると思う。

多様な「他者の合理性」を理解しようとしたうえで、「他者の合理性」同士がぶつかり合う時に、どうすれば回避できるのか。そもそも回避は可能なのか。そこを考えることに、大きな意味があるだろう。

最初から、関係者の事情を踏まえずに、「とにかく戦争はダメ」で済ませるのでは、結局、戦争を選択しそうになっている状況自体の本質的な解決になっていない。

かといって「戦争は仕方ない」で判断してしまうのは、残念だ(色々と考え抜いた結果のその結論は、受け入れないといけないが)。「仕方ない」で終わらないようにするために、結論を急がずに、建前抜きで本音で、意見を言う機会を持ち続けることが重要だろう。

ということです。


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