ニュースいらない

昨年の後悔は毎日ニュースや新型コロナウイルス感染者数などのサイトを見ていたこと。あれは本当に意味が無かった。有害でさえあった。

情報が正しいか正しくないか、読み方が正しいか正しくないかではなくて情報とそれを読み取ることに意味がなかった。

なにかもっともらしい数値が上がったり下がったりした。何か見えてくるんじゃないかとグラフとにらめっこした。私は表情筋の特殊な訓練を受けているので、にらめっこには無類の強さを誇るのだが、とうとう根負けした。何も見えなかった。いや、上がる、と思ったら上がったが、だからといってどうしようもなかった。

ニュースは延々と不安を煽り、不安を煽られたSNSは踊り続けた。

私はそうしたほとんどをていねいに私の視界から排除することを続けた。

本屋に行ったらそういう本があった。NEWS DIETと書いてあった。ロルフ・ドベリという、ちょっと高尚なまとめサイトの管理人から、その内容をまとめて出版してベストセラーにしている著者だった。

きょうび言われなくてもわかる。とにかくニュースは要らない。

情報で大事なのは、自分の行動に影響があったかどうかである。ニュースは結局不安を煽るだけで、精神的に良くないだけだった。ほんとうにやめたほうがいい。

2月・3月に、ときどきニュースが流れている環境に滞在したことがあった。

見てはいなかったのだが、耳に入ってくるだけでもただひたすら苦痛であった。テレビがそうなだけではなくて、ラジオでさえそうだ。

結局、こうしたニュースは行動を変容しないで、私はただやることをやるだけであった。

いついつからどういう移動に規制がかかるとか、そうしたことも、別に教えてもらわなくていい。日常生活で大事な通知はちゃんと市政だよりで流れてくる。

通常の行政手続きにはなかったイレギュラーな手続きでさえ、ちゃんと地方行政を通じて流れてくる。

アクションが必要な情報は基本的には地方行政が準備する。我々はそれをひとまず遂行する。昨年の十万円にしてもそうだった。

これは医療のような、大数の法則がモノを言う現象において特にそうだと思った。

例えば、がん検診のようなものも、適切な年齢になれば案内が来る。逆に言うと、それ以外に不安で踊り明かすのはパーティーピーポーにまかせておけばよいのである。

もう自分では何年もテレビ受信機を持っていない。
一時期、妻が使っていたものがあったが、見ないので我が家では処分した。

そうした一連の経験を踏まえると、たとえば「フィルターバブル」という現象も、結局、意識の高いネット市民運動家のようなひとたちにとって、SNS群衆がいっこうに自分たちの権威になびかないといって、憤慨と不満に目を赤青させているというだけのことではないのだろうかと思った。


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