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ショート ねこのこえ

ねこの声が聞こえる。

もうずいぶん前から聞こえている気もするが、たった今のような気もする。
夢を見ていたのか、それともまだ夢の中なのか。
私はゆっくりと目を開けた。

「夢じゃない、猫の声だ」
私はその声に誘われて、廊下に立った。

いくつかの常夜灯に照らされた廊下は、隅の方が暗い。
そこにいくつか並ぶドアの前に、猫の形をした漆黒が浮かんでいる。

「クルー?」

我が家の黒猫だ。
うちに来てもう1年。とても賢い、そして可愛い我が家の黒猫。

クルーが座っているそこは、洗面所と風呂場のドアの前だった。

そしてクルーは、あごを上げて背筋を伸ばし、何かを見上げている。

”蜘蛛でもいるのかな?”

なにかをじっと見つめる姿が、夢中で釣りをする少年のようで、そんな様子がちょっと可笑しくて、ふふっと声が漏れた。するとクルーはその声に応えるように「にゃあーん」と鳴いた。

「クルーどうした? 誰か入ってるのか?」

「にゃあーん、にゃあーん」

クルーの声は大きくなって、まるで「このドア開けて」と言ってるようだ。

「クルー、風呂にも洗面所にも誰もいないだろ? とうさんはこっちだぞ、こっちにおいで」

クルーはブルーの瞳をこちらに向けた。でも、私の方に来るでもなく、ちょっと首をかしげて「にゃあーん」と鳴いた。

「あれ?」

私はクルーを見つめた。

「クルー、お前ずいぶん大きいなぁ、いつの間にこんな大きくなった?」

クルーはようやく1歳ちょっとだ。子猫ではないがまだ華奢な体付きをしている。でも今、目の前にいるクルーはひと回り大きい。

「クルーどうしたんだ? こっちにおいで」

クルーは、またドアに向かって「開けて開けて」と鳴きだした。
背のびして、ドアをカリカリと引っ掻いている。

その音はどんどん大きくなる。

カリカリ、カリカリ、カリカリカリカリカリカリカリ

ガリガリガリガリガリガリ

「開けて開けて」その声もどんどん大きくなる。

「にゃーーお にゃーーお にゃーーお にゃーーお にゃーーお」

「クルー!だめだよそんな大きな音を立てて! 今何時だと思ってるの?」

そう言ったとき、ある疑問が頭に浮かんだ。

「あれ? 今、何時?」
「何時だっけ」

「そう言えば今日は、いつ?」
「いつだっけ」

私は目の前のクルーを抱き上げようとしたが、その手は虚しく空を切った。

「なぜ? なぜ?」

「なんで? なんで? なんで?」

頭がぼぅっとする。

目が霞んでくる。

あの日、何があったんだっけ。

あそこで。

クルーが必死に引っ掻いている、あのドアの向こうで。

感覚は無くなっていく。
もう目は見えない

ただ聞こえるのは、私を探すクルーの声だけ。

その声を聞きながら、私は思い出した。

あの日、私は倒れたんだ。あのドアの向こうで。

いつものようにドアの前で私を待っていたクルーは、大きな声で鳴いて、ドアをガリガリと引っ掻いていた。

それが私の最後の記憶。

それがクルーの声。

「そうか、そうだったか」

私の意識のようなものは、ストンと暗闇に落ちた。

廊下でクルーの声がする。

その声は、暗闇に閉ざされた私の意識のようなものを、この廊下に連れてくる。

そして私は、クルーを抱きしめようとする。

でもそれは叶わない。

もう何回目だろうか。

でも、今夜は少し違う。

クルーは、最初から私の方を見ている。

あのドアの前に座って、私を見て、そして鳴いている。

「にゃーん」

”とうさん見つけた”

私を探す声じゃない、甘えた声だ。

「クルー、お前、ずいぶんと年寄りになっちゃって」

声を掛けると、クルーはまっすぐ私の方へ向かってくる。

「クルー」

クルーを抱きしめると、涙が溢れてきた。

クルーはゴロゴロと喉を鳴らし、甘えた声で「にゃん」と鳴いた。そして私の腕から飛び降りて、暗い廊下の向こうに歩き出した。

「クルー、どこにいく?」

クルーは振り返って鳴いた。

「にゃおーん」

”とうさん、こっちだよ”

私はその声に導かれて、廊下を歩いた。

それを見たクルーは安心したように私の足元に来て、抱っこをせがんだ。

私はクルーを両腕に抱いて歩く。

暗いはずの廊下は、光に溢れていた。

光は様々な色で瞬いて、私とクルーを包む。

眩い光の中でも、クルーの体は漆黒だ。

いつの間にか私とクルーは、虹色の橋を渡っていた。

私の腕の中で、クルーは私の顔を見つめている。

そのブルーの瞳は、きらきらと輝いていた。

にゃーんと、クルーが鳴いた。

”いつも一緒だね”

そう聞こえた。

「そうだね」

私は笑った。

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