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誰かになりたいと願い、なれるものかと抵抗した

 人が持っているものを、気がつけば羨んで、持っている才能を発揮して羨望と憧れを集めている人に嫉妬していた。
 歌でも、作詞でも作曲でも、人付き合いのセンスでも、文章でも。

 ああ、くやしいほど素敵だなって思い、でも、この人のベースとなっているものは暮らしからして程遠く、生き方も選び方もちがっていて、彼や彼女が迷いなく選べるものを私は持っていなくて、追いかけて。
 捕まえて、それらしいものをまねてみても、やっぱりそれはとてもなじまないものになるだけ。
 その前に、作りながらにして「これは私じゃない」というウルサイのが私の中から出てくる。邪魔をする。
 結局、私は私の書くようにしか書けない。泥臭い、といいたいところだけど、青く見える隣の芝もきっと泥臭い思いで茂ったものなのだろう。
 作り手の考えることは、よく似ている。かもしれない。

 そう隣の芝があまりに鮮やかで青々としていたから。そういう出会いがあると、目を奪われてしまう。どうしてあんなふうに書けないんだろうって。小手先かな、距離感かな、とにかくそういう計算の部分もきっと関係はしているけど本質じゃあない。

 いつだって、だれかのまっすぐは鮮烈で、誰かの鬱屈は深く心に忍び込んで、だれかの願いは儚いほどに美しい。


 世の中には素敵な機微にあふれている。とても私なんかじゃ受け止めきれないほどの、人の数だけの、輝ける瞬間が。心の動くときのはっとするような表情が。街にも、森にも、宝物ばかり。
 かなしみまでも物語に昇華させてしまう人間の功罪と功徳とが編み上げることばの世界、音楽の世界。愛しているのに、私は彼らのように書けない。愛する彼らのあの作品のように、書けない、と。


 だけど、それでも、毎日書く。書き続ける。そうしているうちに生き残るのは、あの、「これは、私じゃない!」とはげしく抵抗したウルサイやつ。これが私だ、と全身で伝えてくるあいつこそが、自分の真の言葉をきっと知っている。

◇◆◇

 素敵なものにかこまれていることは幸せで、同時に、苦しい。好きすぎて苦しいし、作りたくて、触発されて、ウズウズして。

 触発されて書いても、それはやっぱり私でしかないから。
 私にない華やかであでやかな感性に触れたら、全力で「すてきね!」と言い合って、そして私は私の「真ん中」を満たして溢れるもので書いて、また「すてきね!」って言い合う。そんなふうであれたら。

 あなたも素敵、私も素敵。

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