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Project Act Tokyo 舞台「悪魔の涙」観劇

2018年1月、僕は人生において初めて五反田という土地に足を踏み入れた。

「悪魔の涙」初演は、安城龍樹さんの作・演出、そして出演というまさかの一人3役によって行われた。2018年という年は、僕にとって割と激動の年であったから、ずいぶんと昔のことのように感じる。

初演を観劇したときは、正直なんと難解な物語なんだろうと思った。その時の交流会で僕は安城さんに、「書物としてゆっくりと解釈しながら楽しんでみたい」と吐かした。今思えばそれは、役者さんが舞台上で起こす反応を楽しむという演劇の醍醐味を否定することになるから、非常に失礼な発言であったと反省している。

あれから1年と少々、昨年11月の第3回公演、「堕天使とボノボ」を挟み、Project Act Tokyoの舞台を観るのは今回で3回目。仕事の関係で劇団の活動やお稽古を見学させていただく機会を多数いただき、安城さんの描く世界観や、役者さん方の個性を少し把握した上での観劇となった。

ここには端的な感想とちょっとした考察について駄文を連ねたいと思う。また別記事で今作の超個人的考察を綴った。ぜんぜん読んでほしくないので、¥200で限定公開とさせていただく。全文を通して、読みたいところだけ読んでもらえれば嬉しい。

Karajan / Richterという指揮者について

今回の公演で特筆すべき事のひとつとして、一風変わったキャストの分け方がある。

今回、再演版「悪魔の涙」では、ABといった記号の代わりにオーケストラ指揮者の名前を班名として採った。カラヤン(Herbert von Karajan)とリヒター(Karl Richter)だ。彼らは、今作のテーマ曲であるモーツァルト「レクイエム」の録音のうち、名盤と呼ばれる演奏を残している。

そして劇中では、班名に合わせ異なる音源が用いられた。3月の初頭、Twitterで安城さんがこのことに言及した時点で、僕はすぐに2人の指揮者について知識をあさり、音源を聴き比べた。

(余談:ちなみにレクイエムというのは鎮魂歌という意味。魂を鎮める歌。悪魔の涙を知る人であれば、ちょっとゾクッとするはずだ。)

簡単にそれぞれの指揮者の特徴をまとめるとすれば、カラヤンは芸術家、リヒターは音楽家だ。エモいカラヤンとおカタいリヒターといったところか。自身の世界観を実現するために大規模なオーケストラを率いて重厚な演奏を叙情的に描くのがカラヤンで、楽譜通りに、必要数のみの楽器でカッチリとスムースに決めるのがリヒターの演奏だった。

この特徴は「レクイエム」の音源にも余すところなく顕著に現れている。演劇のBGMに使うのであれば、リヒターの一糸乱れぬ演奏の方が使いやすいのではと思っていたが、これは良い意味で裏切られることになった。

動のリヒター班・静のカラヤン班

僕は最終日、千秋楽の2公演にお邪魔したため、まず観たのはリヒター班の上演だった。率直な感想として、リヒター班は非常に観やすい舞台に仕上がっていたと思う。体の動きはオーバーめに、ストーリーの進行と情動の変化が連動しており、特に意識せずともソリッドな物語として楽しむことができた。

演技派の役者さんが集まっている印象で、特に唯役の五十嵐咲帆さんのモノローグ、スイッチが切り替わる瞬間の異常な感動は忘れられない。全身の毛穴という毛穴が逆立ち、目頭が爆発した。こうした感情の起伏もすべて織り込み済みとばかりに、まとめ上げるように物語は幕を閉じた。リヒターの音楽は堂々と、しかし粛々と流れ、舞台との絶妙なマッチを果たした。

対してカラヤン班、こちらはいわば安城ワールド全開の舞台であった。まず主演が大関愛さんであることからなんとなく予想はしていたが(大関さんは1年前の公演でも主演を努めている)、リヒターに比べて雰囲気がどう考えても重い。価値観の種のようなものを授けてくれる、安城さんならではの舞台だ。

どちらかといえば個性派と呼べる役者さんが集まっており、より深い感情移入と自己投影が必要な分、鮮烈な情景描写が光った。物理的な動きがやや抑えられた代わりに、カラヤンの重厚な音楽が没入感を高め、引き込まれるような世界観が生まれた。

ストーリー理解の側面ではリヒターに軍配が上がった。しかしカラヤン班の演劇は、上演中に何度も自身の過去を思い出しぞわりぞわりとしてしまうような独特の感動と、鉛のように密度の高い思考の塊を残していった。

全体を通して、役者さん一人ひとりの個性、役柄がクロスフェードすることによって、舞台に立つ全員が眩しく輝いて見えたことが非常に印象深い。

最後のシーンについて

安城さんのTwitterでの発言もあり、各班の違いについても意識を向けて観劇した今回。上に書いた各班の違いは演出の違いというよりも役者さんの違いによるものだったとも言える。

しかし最後のシーン、ここで2つの班の決定的な違いが観られた。リヒターで秀一がバタリと倒れ込んだ後に唯が登場した事に対し、カラヤンの秀一は倒れることなくあみり達の肩越しに唯の姿を認めた。さらに手を握って「これでよかったのか」というセリフ付き。(僕はこの一言でブワッときた)

さらにはこのシーンの唯の表情、リヒターでは微笑~真顔に近かった事に対し、カラヤンでは嬉しいような、悲しいような微笑をたたえていた。

この違いについては少々計り知れないところがある。唯がこの世の者でないことだけははっきりしているのだが、その正体については不明だ。

愛と悪魔は似ている

観劇を終え、五反田の街を歩いている時、ふと自分の中の「愛」の定義が揺らぐのを感じた。これは大関さんともお話したことだが、愛するという行動は限りなくエゴの表現に近いものだ。自分が何かを、誰かを愛しているつもりでも、実際に愛でているのは自分自身であるということは本当によくある。このことについて今一度釘を刺された気分になった。

いかにして愛するかより、どれだけ愛そうとしているかに注意してみたいものだ。魂を捧げてなにか良い事が起こるなら手軽だけど、僕は魂を捧げようとする意志を持つだけで精一杯だ。

「無償の愛」とは一体全体何なのか。そもそもそんなもの、この世に存在するのか。

この世界に悪魔が存在したのなら、実現できたかもしれない。

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