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個人の権利と幸せの問題について

 社会の中には様々な制限があります。私たちが一般に認識している最大のものは「法律」ですが、そのように明記されているものだけではなく道徳やマナーなどの不文律も存在します。あるいは、ときに不可解にも思えるような、家族、会社、地域などの中のみに設定された「しきたり」が存在することも事実です(それに公平性があるかどうかは別にして)。では、なぜそのような制限が社会の中にあるのでしょうか?

 人類という種に社会的な集団が形成されはじめた頃には、いくつかの特性を持つグループが自然発生的に成立したであろうと考えられます。例えば、最も強い男性が集団を支配するサル山的グループもあったかもしれません。しかし、そのような「集団内でのランクを追求する特性を持つ」タイプのグループは、長い長い時間経過の中でだんだんと姿を消していき、逆に「集団内の多様性を保持する」ことを特性としたグループだけが最終的に残ったのであろうと現在では考えられています。このグループの特質は「個々人の欲求が衝突しないように最大限配慮し、可能な限り集団内の争いを避け、頑強な個体だけが食料や生殖相手などの財産を独占するようなことはせず他者と共有する。また老人や病人といった弱者も見捨てずに庇護する」ことにあるといえます。
 何故そのような淘汰が起こったかといえば、ランダムに(しかもいつか必ず)起こる環境の変化を乗り越えるには、「ひとつの性質を突き詰める」ランキング重視のグループよりも「集団の中に幅(遊びや余裕=多様性)がある」グループのほうが有利であり、適者生存の原理に適っているからだと考えられます。
 例えば過去に存在していたマンモスのような大型の哺乳類が人類の世界進出と共にほとんど滅びていったのは、彼らが「大型化」という性質に特化してしまったからだと考えられています。あるひとつの環境の中で野生動物同士の競争を生き抜くためには、大型化というアイデアはとても有利でしたが、「人類というライバルの進出」という急激な環境変化には、彼ら大型獣は極端に弱かったのです。ひとつひとつの個体は圧倒的に強くても、生息地の奪い合いで「知恵」を持った人類に敗れ、元のナワバリを追われたときに、自ら変化して新たな環境に対応する柔軟さ(=多様性)が彼らには既にありませんでした。
 逆に、初期の人類グループはその内に多様な遺伝子を持っていたため、インフルエンザのような伝染病にも全滅することなく、また気候の激変も多様な個性が産み出す数多くのアイデアによって乗り越えてきました。進出した先々に存在したであろう頑強な大型獣とのニッチ争いでも、それは有効に働いたと思われます。人類集団のボスがいくら強くても、たった一人で何倍もの重量や分厚い皮革を持つ大型獣に敵うわけがありませんが、多彩なアイデアと数の強みを組み合わせることで、彼らを遠くへと追い払うことは可能でした。
 そしてもちろん、その人類グループの子孫である現代の私たちにも、同様に「多様性を保持する」という性質は受け継がれているわけです。

 ところで、どうして我々の祖先たちは集団内の多様性を保持するようになったのでしょう? それは人間に備わった合理性から導かれた「公正」という概念に由来するといえます。
 その「人間に備わった合理性」の特徴とは、過去の原因から未来に起こりうることを予想することであり、つまりイメージする能力だといえます。
 「このマンガがすごい!2019」オトコ編2位にも選ばれた『金剛寺さんは面倒臭い(とよ田みのる/小学館)』という漫画に、「ケチな二人にビールを分けさせる方法」というエピソードが出てきます。その方法とは、
 「片方にビールを注がせてもう片方に選ばせる」
というものです。こうすると、ビールをふたつのコップに注ぐ役の人は、可能な限り同じ量に見えるよう注ごうと努力します。なぜなら、ビールを選ぶほうは可能な限り多いように見えるほうを選ぶよう努力するはずなので、その未来を予測することによって相手に得をさせないよう(自分が損をしないよう)、極力半分にしようとする方向に欲求が働くはずだからです。このようにして社会には「公正性」が発生します。

 すべて生物の情報元になっている遺伝子は「自分をコピーしようとする」性質を持っています。生物は手の届く範囲ならばどこまでも広がっていき、そこで他者とぶつかりあえば「相手を排除しても自分を複製し伸長して」いこうとします。つまり生物はもともと、とても「利己的な」性質を帯びています。しかし、その利己的な性質こそが、社会の中では人間の想像力を介してある種の利他的な行動を導くのです。
 ふたりきりの社会があったとして、片方が怪我をした場合を考えてみます。元気な人が怪我人を養えばそのぶん自分の食い扶持は減るわけですが、未来を予測可能な「人間」という生物は、彼がもし翌日に快復して働き出した場合には、ひとりで働く分の2倍の食料でなく、互いの協力によりもっと多くの(2倍+α)の食料を手にできるということを、経験から想像します。またこのことは、自分が怪我をした場合にも相手がきっと同じことを考えるだろう、と彼に予測させます。このようにして彼は、怪我をした仲間を助けます。一見して利他的な行動が、利己的な性質から自然に生み出されるのです。たとえ個人の利益のための行動でも、その行動は人間の持つ合理性(未来を予測する力)に基づいており、その結果として、公正という理念が成立するということがわかるでしょう。

 このように、公正の理念はその内包する合理性から「集団を常に最悪の状態から回避させるように努力」させます。これは言い換えると、「社会は可能な限り幸福を追求しようとする性質がある」ということです。この事実を史上初めて指摘した人が、18世紀イギリスの哲学者・ベンサムです。
 ここまで述べたように、我々の社会は、その原初からエゴイズムの衝突による不幸を回避するよう努力すること(=社会の幸福を追求すること)が既に宿命付けられているのですが、では社会の中でエゴイズム(個人的な欲求=自由に振舞う自然な権利)がどのように制限されるのかを、ベンサム以降の哲学を「交差点」というモデルを用いて説明していきます。

・東西に伸びる道路と南北に伸びる道路が直交しています。
・東の終点にある工場Aには西の町から、南の終点にある工場Bには北の村から多数の労働者が自家用車で通っています(右左折は考えないものとします)。

 何の制限もなくドライバーに任せていると、出勤者は交差点で押し合いへしあい、渋滞や事故が多発して遅刻者が後を絶ちません。その結果ふたつの工場の生産量は想定をはるかに下回りました。この状況をみて社会はさっそく合理性を働かせます。
 「これは集団の中の幸福の絶対量が減っている状態だ」とベンサムならば考えるでしょう。彼はこう提案します。
「全体の生産量を上げるためには、労働者の数が少ないほうの道路に一時停止の標識を立てるのがよい。」
 もちろん工場Aの生産量は増えましたが、工場Bの生産量は上がりませんでした。事故の影響による生産ロスは減ったものの、遅刻者は多発したままだったからです。果たしてこれはベストなやり方と言えるのでしょうか? 工場Bで働く労働者は賃金が増えず、個人の幸福度には明らかに格差が生じています。そこで社会は合理性を働かせて更なる「努力」をします。

 18世紀ドイツの哲学者・カントはこう考えました。
「“権利を制限されてる”というのがそもそもおかしいんじゃね?」
 コペルニクス的大転回です。
 カントの考え方によれば、我々は自分の欲望にまかせて好き勝手に振舞っているときに何の制限も受けていない(自由である)ように感じているのですが、それは理性を持っているはずの人間が自分の欲求に「奴隷のように従っている」だけであり、逆に欲求を離れた認識力である「理性」によってコントロールされているほうが自由だというのです。またその理性は人間の「良心」に基づいているので、良心を発揮した道徳から導かれた方法は万人に効果を有します。
 カントの提案は、交差点に「信号」を立てることでした。縦横の道路を利用する車の交通量に合わせて待ち時間が均等になるよう調整し、道路の利用者たちに公平に制限を加えたわけです。このとき、信号での待ち時間の分だけ期待していた生産量に足りないことになりますが、カントの理屈では、制限を受けているその状態での最大生産量こそが、工場の有する真のポテンシャルであり、そもそも前提計算が間違っていたのだということになります。信号での待ち時間込みで、我々はすでに十分幸福になっている、いうことです。
 しかしなんだか騙されたような気がしないでもないですね。これは、良心や理性はどこから来たのかという理由が判然としないからです。実際カントはその拠り所を「神」に依存していました。これだと結局、神さまによって制限を受けているのと変わらないわけで、それを信じない人にとっては何の意味もありません。無信心な人々は「それじゃ神さまの奴隷だよ」と言うことでしょう。
 そして実際、全ての人間が必ずしも良心に従う行動を採るとは限らなかったのです。交差点ではその後もしばしば信号無視による死亡事故が発生しました。何かもっと良い方法があるはずだと「努力し続ける」のが社会です。

 19世紀ドイツの哲学者・ヘーゲルは「歴史」という新しい方向性に着目しました。
「なんだかんだ言って長い眼で歴史を眺めてみるといい方向に進んでるんだから大丈夫!」
 テキトーです。

 ヘーゲルによると、人間の理性は常に新しいものを求め続けるので、時間経過とともに新たな知識が集合して、いつか突拍子もないアイデアが生まれ、問題が解決するというのです。そして現在起こっている対立は、新たな視点へのヒントを見つけるための始まりなのだ、と彼は考えたのです。ヘーゲルは交差点問題の本質を「平面上で道路がぶつかり合う」ことによるものだと気づきました。そして技術の進歩が「それ」を可能にしたのです。こうして立体交差が生み出されました。
 さて、これで工場Aも工場Bも生産力をフルに発揮できます。交差点事故はなくなり、労働者の収入も上がり、社会全体の幸福度はかなり上昇したのではないでしょうか。これ以上何を追及するものがあるとは思えません。もう私たちは社会からなにも制限を受けず、心置きなく自己の権利を享受できるんですね!

 ……私は「それは違う」と思います。
 先人たちが理性を働かせて造り上げたこの社会というシステムを「守る」というコストのために、今度は私たち自身の自由が制限されなくてはならないのではないかと、私は考えます。
 今こそ私たちは、自ら進んで権利の一部を手放さなければならないのです。それがこの文明という遺産の最上端に立った私たちの「義務」なのではないでしょうか。すなわち、今後守らなければならないのは特定の誰かの幸福なのではなく、その元になった「幸福を追求すること」という精神です。ときには既存の法律や道徳といったレベルを超えた手段を、つまり最悪の状態を回避するための選択肢を常に「準備」しておかねばならないのです。
 例えば身代金目的の誘拐事件などに対しては超法規的な選択肢があることを我々は「知って」います。卑劣な誘拐犯にお金を渡せば、その資金によって新たな犯罪が計画されるかもしれませんが、お金を渡した後に逃走を阻止することも可能性がないわけではありません。しかし人質は命が傷つけられてしまえばそこで可能性が終ってしまうのです。その後に犯人を逮捕したところでその事実は覆すことはできません。もちろん既に人質がこの世にいない可能性だってあるでしょうし、或いは現場での極限状況における判断の結果として、身代金を渡すという選択肢が用いられない場合もあるでしょう。個人的な不幸は起こりうるかもしれませんが、しかしその不幸を回避するための準備(身代金の用意)だけは決して怠ってはならないのです。
 あるいは交通ルールの中にある「回避義務」もその一種でしょう。運転者には速度遵守や停止義務などのような、現場での具体的な規則のみならず、不測の事態にも対応できる準備をしておくことが常に求められているわけです。現実の運転中には、優先ではない方向から車や歩行者が突っ込んでくることがあります。「止まってくれるだろう」「相手が止まるべき」ではなく、回避できるのであれば回避することが最優先に求められ、その場合には、個人の権利(欲求、自由)は幸福のために制限され得るのです。たとえその形がどうであれ、それは「特定の誰か」の幸福なのではなく、実は「社会全体」の幸福であることを忘れてはなりません。
 凶悪犯の裁判があるたびに「なんで裁判や弁護人が必要なんだよ!即刻死刑でいいじゃないか」という声があちこちから聞かれます。感情的には同意できますが、しかしこのときに守られているのは「犯人の人権」ではなく、どんな人でも裁判や弁護を受けることができるという「社会のシステム」なのです。すなわち、それによって守られたのは私たちの文明であり、決して愚かな者たちへの甘やかしなどではないのです。
(了)

Written by : M山

 ※ここに登場する思想家たちの哲学はその要点のみを抜き出し、細部は限りなく簡素化していますので、詳しくお知りになりたい方は各自でお調べください。現実の現場における社会の諸問題はもっと途方もない事情が複雑に絡み合っており、例えばヘーゲルの思想を用いてもそのほとんどは解決できないと思われます。我々はまだ幸福探しの道半ばなのです。ヘーゲル以降の近現代思想では、西洋哲学も仏教などの東洋思想のように実存哲学をメインに社会との関係を考える方向へとシフトしていきます。

主要参考図書
『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ著
『金剛寺さんは面倒臭い』とよ田みのる著