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丸ごとの愛

人を好きになるということは、歩いていて転ぶようなもので、全ては転ぶタイミングなのだと思う。相手が手を差し伸べてくれそうな時に転ばないと、ただ痛い。でもそれを見極めすぎると怖くて転べない。

久々に大学の友人と会って、朝までオールして、そのままこれを書いている。ああ、今日は記憶に残る日だ、胸に留める日だ、と思うことは生きていて何度もあって、それは必ず言葉にして残しておかねばと思って書いている。

いつも、彼の前でわたしは転びそうになっていた。ずっと腐れ縁で付き合ってた女の子がいるときも、クラス1のかわい子ちゃんと付き合い始めたときも、ずっと、なんとなく会うことは多くて、たまにさみしくなると電話をくれた。でも、転んでも絶対に手を差し伸べてくれなそうだから転べなかった。いつも、なんともないふりをして、一緒に歩いた。

あの関係に「恋」と名付けることは出来なかった。きっと手を差し伸べるか迷って困った顔をするだろう、とそれを想像するだけでもう最初からあきらめていた。とはいえタイミングよく転べそうなときもあったのだが、付き合ったらうまくいかないのは目に見えていて。優しくて勝手だから、振り回されて束縛したくなってしまうし、寛容ぶって苦しくなる自分に辟易とすることはわかっていた。から、遠くで仲良くしてきたのだ。

わたしには当時好きな人がいて、その後彼氏もできた。彼の入る隙間はほとんどなくて、三年くらい会っていなかったけど気にも留めていなかった。でも、今日、久々に会ってもやっぱり転びたくなるのはかわらなくて(もう大人だし結婚しているのでそんなことは絶対にしないんだけど)この人のこと好きだな、と本能がいうので困ってしまった。元来ああいうおちゃらけていて、でもとびきり優しくてサービス精神旺盛な人が好きなのだ。女より仲間や音楽を愛していて、家族にもちょっと紹介出来ない、きっと浮気もするし結婚もしてくれない、周りからはやめなよって言われるような人。でも、いつ会っても好きだなと思う。例えばわたしが子供を産む気がなくて結婚する気もなかったら、派手に転んで痛い目に遭ってもう一生人生が交わらなかったかもしれない。

恋と、名付けなかったことで、その人のことや、その人との関係が丸ごと愛せるようになってくるなあ、と、年を取ってきて思う。関係に名前をつけないからこそ末永く相手の幸せを祈れることがあるんだと、30歳目前で気付いたのだ。彼が別れ際に何度も握手を求めてきて、最後にはハグして別れた。そうしたくなるのが、わたしにはよくわかったから、笑ってしまった。あのハグは、「お互いよく転ばなかったな、だからずっと大好きだ」のハグだ。

恋にしなかったから、いつだって丸ごと愛なのである。

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