9061純血種

私たちは「人類最良の友」にいったい何をしてきたのか?『純血種という病』試し読み

ケネルクラブ、ドッグショー、ブリーダーによる犬のブランド化のおかげで、多くの「純血種」が遺伝性障害に苦しんでいます。人間の都合でつくりだされた「純血種」の歴史と真実を描いた本書から、「はじめに」をお届けします。


■ ■ ■

 この、いささか攻撃的な本を書こうと思い立ったのは、路上を歩いていて、落ちていた「あるもの」を避けようとした時だった。私は当時、犬の糞の放置を禁じる法律がニューヨークにできるまでの経緯を一冊の本にまとめる仕事をしていた。調査の一環として、地元のシェルターから引き取ったばかりの雑種犬を連れ、マンハッタンの歩道をぶらついていたのだ。悪臭を放つそれを回避しようとした時、私はふと疑問に思った──「純血種」の犬はなぜこれほど人々の心を惹きつけるのだろうか。周知のとおり、子供の頃に純血種の犬を飼っていた人は多い。飼うのは主に善良な中産階級の家庭であり、できれば最新流行の犬が欲しいと願う人は多かった。時代遅れの雑種よりも、高級な純血種を飼っている方が立派に見えると信じていたからだ。だが、その信仰はいったいどこから生まれたのだろうか。

 犬の散歩代行をして、一〇年にわたりあちこちを歩き回ってきたが、その間に、自分の観察力の及ぶ範囲で、犬の分厚いカタログが私の中に作られていった。人間の関心を集めるために犬が獲得してきた、あらゆる理想の形、サイズ、毛色がパノラマのように収載されているカタログだ。とはいえ、それは私にとって本質的に新しい何かを教えてくれるものではなかった。私はこれまで、純血種、雑種の分け隔てなく犬との時間を過ごしてきた。ニューヨークに暮らす何百軒ものエリートたちの家で犬の世話をしてきたし、犬のトレーナーに弟子入りしたこともある。全国放送に愛犬と共に出演し、ドッグパークのボランティアとして何千時間も働き、ありとあらゆる犬の飼い主と会話を交わしてきたのである。そこで私が学んだのは、毛の色や社会的ステータスとは関係なしに、すべての犬を愛することだった。私は小さい頃から、祖母の牧場で働く犬や父の狩猟のお供をする犬、ジャンプをして輪をくぐる犬、近所に住んでいた盲目の女性の介助をする犬などを見てきた。なので、本書の執筆を始める前から、こうした特別な能力がない限り、犬たちのほれぼれするような多様な外見は、そのほとんどが皮相的なものであることを理解していた。

 鳥猟犬たちは今、マンハッタンの上流家庭の薄っぺらな空気の中、自分の特性を生かす機会もないまま暮らしている。ポーチュギーズ・ウォーター・ドッグもまた、水から飛び出した魚のごとく場違いな場所に生きている。ウィリアム・ウェグマンの元で飼われていないワイマラナーは、ただ少し頭の良くない愛玩犬になってしまっている。ドビー〔ドーベルマン〕やロッティ〔ロットワイラー〕は優れた番犬であるかもしれないが、飼い主が求めているのはそうした特性ではなく、その特徴的な姿形とピンと立った耳だ。バセット・ハウンドは、かつては獲物を追跡することができたが、現代のコンテストに出場するような世代は、知性が少し足りず、皮膚もたるんでしまっている。もはやしつこく急かさない限り、獲物の匂いをたどることなどできないかもしれない。黒いラブラドール・レトリーバーとゴールデン・レトリーバーは、スコットランドの荒れ地や貴族の荘園といった古き記憶を呼び起こしてくれそうだが、今では他の犬と同じくカウチポテト族になってしまった。

 本書のための調査を続けていくうちに、私の関心の対象は、犬ばかりでなく、犬の外見に夢中になっている人間へと広がっていった。ニューヨークという世界屈指の華やかなコミュニティで、特権的とも言えるペットたちを散歩させることに私は長い年月を費やしてきたわけだが、そうした仕事の中で最も苦労したのは、犬の糞を拾い上げることではなく、犬に過剰な期待を寄せる人々を回避することだった。預かった犬たちに対し私が負っていた崇高な義務は、思う存分、脚のストレッチをさせてあげることだ(もちろん道中のトイレ休憩も含まれる)。同時に、犬たちを最寄りのドッグランに無事に連れて行ってリードを外すことも大事だったし、犬たちの無条件の愛に対し条件だらけの散歩で報いようとする雇い主たちから、一時間ばかり自由になってもらうことも重要だった。私が世話をしてきた犬たちに必要なのは自分自身になる機会だったが、そのための時間はいつも足りなかった。それは純血種であろうと雑種であろうと同じことだ。ドッグランの時間は貴重だった。涼しげな木陰、緑豊かな芝生、そうしたものはどんな犬種にも平等に存在している。近くの枝の上から挑発しているように見えるリスでさえ、血統を理由に犬を差別することはない。

 散歩中の犬たちが一番したくないこと、必要としていないことは、見ず知らずの通行人──ウェストミンスター・ケネルクラブ・ドッグショー〔ニューヨーク市で毎年開かれる巨大なドッグショー。以下ウェストミンスター・ドッグショー〕のチャンピオン犬を探し歩くようなタイプ──からの称賛を浴びるために、熱いアスファルトの上で足止めをくらうことだ(犬が嫌がっているのはリードを引っ張る力でわかる)。私は犬たちを引き連れて、人間にとっても犬にとっても危険な社会的状況をくぐり抜けようとする。だが、犬に向けられた盲目の愛の津波は、混雑した道で人々が互いにぶつからないように引かれた境界線すらもたちまち呑み込んでしまう。純血種の犬を見ると、子供たちは飛び出してくるし、大人たちは誰も彼もが遠くから指をさす。そして、許可もなく駆け寄って来ては質問を浴びせかけるのだ。

 もしホワイトハウスで新しい犬が飼われ、私がそれと似た犬を散歩させていたとしたら、通行人たちは好奇心に駆られて、「それってポーチュギーズ・ウォーター・ドッグじゃない?」とか「もしかしてプチ・バセット・グリフォン・バンデーン?」などと、物怖じもせずに尋ねてくることだろう。実際、ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」の中で主要登場人物のシャーロットがキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルを飼い始めた時、私は「キャバリアでしょ?」という問いかけに数え切れないほど答えさせられる羽目になった。それだけではない。映画「ドッグ・ショウ!」がヒットしてから九週間にわたって、ノーリッチ・テリアのブームが沸き起こったが、その犬が通るたびに必ず「あなたの犬はノーリッチ? それともノーフォーク?」という質問が繰り返された。ボーダー・コリーもまた、ウェストミンスター・ドッグショーで脚光を浴びたあとは、連れて歩くのが疲れる存在になってしまった。映画「ベートーベン」の二作目以降、私はセント・バーナードの散歩の依頼は断るようにした。ディズニーが、あるリメイク作品の続編を発表した際には、ニューヨーク中の歩道が黒い斑点で覆われ、「ダルメシアンですよね?」という声であふれかえった。

 このような熱狂がある一方、私が世話をした雑種犬で、純血主義者たちの視界に入ったものは一頭もいなかった。彼らの社会的レーダーは、そうした犬たちを完全に無視したのである。それはまるで、セントラルパークでバードウォッチングに熱中する人々のようなものだった。つまり、彼らが探していたのは、名前を同定できる犬、ラベルを貼って屋根裏に保存できる標本みたいに特別な犬だったのだ。そのような犬のカタログを作成することは、純血主義者たちの自尊心に訴えかけ、また奇妙な達成感ももたらしているようだ。というのも、犬種を尋ねてくる人々にとって(ほとんどの場合、彼らはその答えをすでに知っているのだが)、その血統当てクイズが難しくなるほど、正解を言い当てた時の名誉も高まるからだ。そして実のところ、この種のゲームの本当の目標は、自分たちが犬のことなら何でも知っている──それはアニマルプラネットやハリウッド映画で得た知識なのだが──ということを、犬の飼い主や私のような散歩代行者、あたりの通行人全員に知らしめることなのである。

 愛犬家は、人類の最も親しい友人である犬たちを称賛し、感嘆の声を上げる。だが、自分たちが犬のためと思ってしていることが、必ずしも犬自身の利益になっているわけではないと気づいている人は、どのくらいいるだろうか。ラブラドールやシェパードの毛並みは愛すべきものかもしれないが、末永く散歩を楽しむためには、股関節形成不全を改善するためのハイドロセラピーが必要な場合がある。しわくちゃ顔が特徴的なシャー・ペイとボクサーの飼い主は、しつこいアレルギーとてんかんのために動物病院を何度も予約し、ゴールデン・レトリーバーとスコティッシュ・ディアハウンドの飼い主は、腫瘍病棟やICUに駆けつけるためにペットタクシーを呼ぶ。しかし、皆、愛犬を街中連れ回すのに忙しすぎて、そうした特別な配慮が必要になったのは、熱烈な愛好家たちが犬に背負わせてきた問題のせいなのだということを、ゆっくりと考えてみようとも思わないのだ。

 疑問の余地はもうまったく残されていない。長年疑われていたとおり、犬種の特徴が際立つようなブリーディングが、犬たちに様々な苦痛を与えていることは、数々の研究の結果から明らかだ。癌、四肢の奇形、肌の異常、目や耳の感染症などに苦しむ犬は多く、その数は増え続けている。純血種の多くは明らかに危険な状態にあり、愛犬家はこの悲しい現実に立ち向かわねばならない。ラブラドールがラブらしく、パグがパグらしく見えるように強制するブリーディング、品評会の基準に合致させ、恣意的な美の理想を体現させるためのブリーディングは、確かに美しい犬を生むかもしれないが(これは各人の好みによるだろう)、平均的な雑種よりも身体的、精神的に劣る生き物を作り出す可能性も高い。犬の外見のみを優先して健康や気質を軽視した結果、様々な問題が生じてきている。獣医師はその「極端な身体構造」を憂慮する。漫画のキャラクターのような身体的特徴は人間には魅力的に見えるが、犬にとっては不快感や痛み、短命の原因となる。そして、予想もしていなかった安楽死を選択せねばならず、飼い主が苦悶することにもなる。

 私たちはなぜ自分が愛するものを傷つけようとするのか。なぜジャーマン・シェパードは、生涯を通じて脚を引きずらねばならないのか。なぜフレンチ・ブルドッグの呼吸は辛そうなのか。純血種の愛好家たちは、自分が育て愛してきたお気に入りの犬が苦しむことを決して望んではいない。だが、先天性疾患と特徴的な外見が問題になっている犬(いわゆる「アレルギーを起こしにくい犬」も含む)に対して、配慮が足りていないのもまた事実だろう。私は、こうした問題の根は過去にあると考えている。硬直した審美眼、潜在的な階級意識、血の「純粋さ」への信仰、「本物」に対する素朴な考え、間違った理由で犬を愛する傾向、そうしたものがあるがゆえに、私たちは、近親交配の危険性や極端な身体構造の負の側面、今日のペット産業の邪悪さを伝える大量の情報に関心を払わない。もしあなたが、より広い歴史的視点を持ち、こうした事実に目を向けられる善意の動物愛好家なら、ある朝、こんな天啓と共に目覚めるかもしれない──人間の友人となるために犬が理想化される必要はないし、商品のようにパッケージ化される必要もないのだ、と。生まれる何ヶ月も前から「評判の」ブリーダーに前金を支払い、写真うつりのいい純血種を手に入れなくても、同じだけの幸福を与えてくれる、申し分のない素晴らしい犬が、家から数分のシェルターで手に入ることを知れば、私たちの生活はずっと豊かなものになるに違いない。

 犬は人間をありのまま愛してくれるが、一部の人間は犬の中に自分の見たいものだけを見る。実際、私が犬の散歩をしている時に、呼び止めて次のような質問をした自称「古き良き犬の愛好家」は一人もいない。「アメリカにいるゴールデン・レトリーバーの六〇パーセント以上が癌で死ぬって本当ですか?」。もし、そんなことを尋ねた人がいたなら、私はきっと、深刻な問題を抱えた純血種を紹介したウォール・ストリート・ジャーナル紙の各種記事や、学ぶことの多いBBCのドキュメンタリー番組“Pedigree Dogs Exposed”〔「犬たちの悲鳴──ブリーディングが引き起こす遺伝病」〕を教えたことだろう。時間が十分にあれば、BBCがクラフツ・ドッグショー──世界一のドッグショーであり、ウェストミンスター・ドッグショーのロールモデルでもある──の報道をしないと決めたことも、話したかもしれない。BBCは、「犬の社交界」がその価値観を見直し優先順位を変えるまで、報道をしないと決めたのだ。だが、私の腕をつかんでこう尋ねてきた愛犬家は一人もいない。「アメリカンケネルクラブ〔以下AKC〕の手本となったイギリスの名高きケネルクラブに改革を迫るため、エリザベス女王自身が後援から手を引いたというのは本当なのか?」と。

 犬の血統と外見の完璧さに対する狂信は、イギリス経由で私たちアメリカ人の元に到達した。その結果、大西洋の両岸で問題が起きることになった。ほとんど知られてはいないが、イングリッシュ・ブルドッグの足取りのようにおぼつかなくはあるが、犬の健康危機の存在をとにかく認めようという動きは生まれている。しかもそれはアメリカで始まった。イギリスでそうした動きが大々的に報道される一八年前、アメリカは、大半のメディアが強大な影響力を持つAKCを恐れる状況にあったが、そんな中マーク・デアは、画期的なエッセイ“The Politics of Dogs”〔「犬の政治」〕をアトランティック・マンスリー誌に発表した。それ以降、書籍、雑誌、科学研究が、純血種の問題に関して警鐘を鳴らし、アメリカでは、誤った判断を続ける古い権威への支持が徐々に低下してきた。その他にも、たとえば、先に触れた「犬たちの悲鳴」というBBCの番組は、社会的な主張とウィットの組み合わせというイギリスの伝統を用いて、思い上がったペットオーナーたちを痛烈に批判した。また、単に俗物根性を持つだけでなく、重大な罪を犯しているとして、ケネルクラブを審判の場に引きずり出した。またエコノミスト紙は、現代の純血種の多くは、イギリスの伝統技術を凝縮したものなどではなく、「先祖のオオカミをグロテスクに歪めたものだ」と断じた。

 犬の置かれた立場を見直すべきと主張していても、私は、熱狂的な愛好家たち──純血種を所有し、ブリーディングし、展示し、評価する人たち──が皆、動物虐待から利益を得ている唾棄すべき悪党だと言いたいわけではない。加盟しているのがAKCであろうが、それよりも健康志向のユナイテッド・ケネルクラブであろうが、純血種マニアたちが、これまで改良を重ねてきた犬たちが消えてしまうことを望んではいないのは明らかだ。また、ブリードクラブ〔単犬種団体〕やケネルクラブが、犬の病気──毛色や耳の形くらいはっきりとそれぞれの犬種を特徴づけるものでもある──への対応に必要な莫大な金銭を工面してきたことも、紛れもない事実だ。とはいえ、こうした努力のほとんどは、現行のシステム内では限定的な効果しかあげないと考えられる。純血種を存続させるために従来の厳格で狭量なルールを守りたい人にとって、そして犬たちの血を「純粋」なものに保ち、「正しい」見かけを維持したい人にとっては、病気を防ぐためのDNAの検査制度が、自己破壊的な試みに変容してしまう恐れがある。パグやキャバリアなど様々な問題を抱えがちな犬種は、たとえ多くのファンがいたとしても、その犬自身のためにブリーディングそのものを法律で禁じるべきだとする獣医学者は、次第に増えてきている。

 しかし、どう贔屓目に見ても、状況改善への足取りは依然として重い。大西洋の両岸の動物愛好家たちの多くは、いずれも、科学者から新しい情報を得る必要性を感じていない。ましてや、彼らが雇っている散歩代行者の意見など、相手にもしない。数万年前、狩猟採集民たちは、進化生物学や集団遺伝学の助けなしに、あるいは「ナイトライン」や「トゥデイ」といった番組や地方の放送局の継続的な報道なしに、今の私と同じ結論に到達した。血の「純粋さ」と姿形の完璧さを求めるブリーディングは、これまでもこれからも純粋な狂気であるという結論だ。にもかかわらず、血統主義者たちは、基準に合わない形、サイズ、毛色を厳格に排除する「伝統的な」ブリーディングには、ヴィクトリア朝時代の商業的発明にとどまらない価値があると頑なに信じ込んでいる。なぜか? 政治的正しさや社会意識の高さを持ち合わせた消費者、あるいは教育ある消費者でさえ、ゴールデン・レトリーバーへの投資はゴールドマン・サックスからデリバティブ商品を買うようなもので、その犬種のブランドを守るのはマーズバー〔チョコバーのブランド〕を助けるようなものという認識ができないのはなぜだろうか?

 そうした質問に対する答えは、多くの場合、単純である。たとえば、それは俗物根性のせいであるとか、大昔からある動機によるのだとか、過去の慣習をそのまま受け継ぐ傾向が原因、といった具合だ。本書(原題A Matter of Breeding)は、イギリスおよびアメリカにおける愛犬家たちの社会史であると同時に、驚きと不信が織りなす一大叙事詩でもある。私は本書を科学研究と偽るつもりはない(その方面のことを知りたければ、ネットを検索すれば大量に情報が手に入るはずだ)。実際この本は、公私を問わず様々な場所で行ってきた犬と人間の観察と、数年かけて秘密裏に積み上げてきた記録調査を組み合わせて、書き上げたものである。私が強く願っているのは、本書を通じて読者の皆さんと疑問を共有することだ。その疑問とは具体的には、①犬たちはいかにして今日見られるような多様な形、サイズ、毛色になったのか、②誰がどのような理由で犬たちをそうさせたのか、③どうして私たち人間は犬に関する問題の多い判断を今日まで尊重してきたのか、④人間の間違った優先順位のために犬はどのような代償を支払ってきたのか、である。この疑問の答えを明らかにしていきたいと考えている。街の歩道やドッグショーのグリーンカーペットで出会う純血種たちは、何も天から突如として降ってきたわけではない。犬たちは、他の豪奢な商品と同じく、消費者の目を引くように意図的にデザインされ、パッケージ化されたものだ。犬に対するのと同じ根拠のない偏見を人間に向ける者がいたとすれば、浅はか、無神経、人種差別的、正気ではないといった評判をたちまち呼ぶだろう。最も大切な友人である犬の利益を最大化するため、と愛犬家たちは考えているかもしれないが、厳格な基準を課すことは、犬にとってはまったく不必要である。

 本書で紹介した歴史的事実には、古いものもあれば最近のものもあるが、それが今日どれくらい変化しているかは読者の判断を仰ぎたい。一九三四年、イギリスの歴史家エドワード・アッシュは、「新しい背広、新しい車、新しい妻をもつのは喜ばしいことだが、それを見せびらかせないのであれば、喜びも随分と減じてしまうことだろう」と述べた。「高級」なペットが持つ普遍的な魅力について語った際の言葉だが、これは犬の愛好家たちが自己正当化のためにひねり出した最初期の理屈と言えるだろう。別のイギリスの権威は、この考えの核心により深く切り込み、「どういうわけか小生は、育ちの悪い雑種を連れて歩けるような人間に敬意を一度たりとも感じたことがない。犬とその主人のタイプが同じであることはとても多いのである」と述べている。同じ人は一八九〇年代に「雑種の犬について来られて特に問題はないと考える人など一人もいないはずだ」とも言っている。映画監督のクリストファー・ゲストは、映画「ドッグ・ショウ!」の着想について説明する中で、こう分析している。「飼い主とペットの間に存在する真の力学に私は気づきました。純血種の飼い主が雑種の飼い主を見下すのとまったく同じように、純血種の犬も雑種の犬を見下しているのです」

 犬は科学実験の道具でも、芸術作品でも、継承すべき伝統を伴う歴史的遺産でもない。犬たちは、まさに今この瞬間にこの場所で、私たちの心が存在する時と場所で生きているのだ。この愛すべき友人たちは、避けることのできない健康問題に直面しており、その問題は極めて深刻化しているが、それは別に目新しい話ではない。私たちは約一五〇年前に道を誤り、友人である犬たちの評価基準を変え、自分たちを喜ばせるために犬をとことん歪めるようになった。そうなってしまった理由をあれこれと詮索する前に、この騒ぎから一歩身を引いて、はじめて子犬を見て恋に落ちた時のことを思い出して欲しいと私は思う。

* * *

 最後に、犬問題の第一人者の言葉を記しておこう。あるイギリスの専門家が、一八七五年にアメリカ人に対して送った助言だ。当時アメリカ人たちは、犬の品評会やロゼット〔バラ飾り〕、イギリス王族などの「趣味の良さ」について学んでいる最中だった。上品な紳士だったその専門家は、公共の場で間違った犬を連れて歩くことについて、単刀直入にこう警告している。「雑種犬の市場価格は、その犬の皮の値段から、首を吊ってその犬を殺すためのロープの代金を差し引いたものである」

 この言葉に私たちはどんな答えを返すべきだろうか。何か言い返せるようなことを私たちはしてきただろうか。

『純血種という病』紹介ページ

最後までお読みいただきありがとうございました。私たちは出版社です。本屋さんで本を買っていただけるとたいへん励みになります。