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自動運転車の不都合な真実『ドライバーレスの衝撃』試し読み

事故削減などのメリットが期待される自動運転車(ドライバーレスカー)ですが、普及すると社会はどう変わるのかということはあまり議論されていません。自動運転車が普及すると生活は良なるのでしょうか? 実は良くならない未来もありえるということを、米国トップの交通専門家が訴える『ドライバーレスの衝撃』から「イントロダクション」をお届けします。

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イントロダクション この車はバックできません


 ヘンリー・フォードがモデルTを初めて生産ラインに載せてから20年後。発明家たちは、自動車というシステムにおける最大の弱点を取り除こうとしていた。その弱点とは、ドライバーである。それから1世紀がたとうとするいま、彼らの挑戦がついに実を結ぼうとしている。その結果、生活はより豊かで、より安全になるかもしれない。あるいは人々のライフスタイルは、悪い方向へと変わってしまうかもしれない。本書では、両方の可能性と、その間にあるグレーゾーンを探り、最良の結果を手に入れるための方策について考えてみたい。

 1939年のニューヨーク万国博覧会において、ゼネラルモーターズは「ハイウェイ・アンド・ホライズン」と名づけられたパビリオンを設置し、その中で「フューチュラマ」という展示を行なった。そこでは来場者は音響装置が施された座席に座ったまま3分の1マイル(約530メートル)を移動し、3万5738平方フィート(約1000坪)もの広さのジオラマを見物する。ジオラマで表現されていたのは、1960年という未来の都市の姿だった。その世界には自動化された高速道路があり、光り輝く都心と不規則に広がる郊外、広大な田園地帯、そして現代的で効率化された産業地帯を結んでいた。

 この展示を設計したのは、工業デザイナーで舞台美術家でもあったノーマン・ベル・ゲディーズである。彼は著書『魔法の自動車道』(Magic Motorways)の中で、次のように述べている。「フューチュラマは大型の模型で、アメリカのほぼあらゆる地形を再現しており、その中で高速道路システムがいかに国中に張りめぐらされるかを示している。高速道路は、山々を横切り、川や湖を越え、都市や町を抜けて、さまざまな場所を一直線につなぐ。そして設計における4つの基本原則、すなわち安全性・快適性・高速性・経済性をかならず満たすのだ」。大恐慌から抜け出しつつあった人々の目に、このビジョンはユートピアのように映っただろう。

 そして1960年になった。私は12歳で、人々はまだ、従来型の自動車を自動化されていない高速道路や一般道路で走らせていた。その年の6月19日、私が住んでいた場所から2区隣りのブロンクスに「世界最大」と謳い上げた遊園地がオープンする。この遊園地「フリーダムランド」は短命に終わるのだが、隣人でニューヨーク市建設局の職員だった人物が、私たち一家にフリーパスを2枚くれた。そこである日、22歳の兄ブライアンが私を園に連れて行ってくれた。205エーカー(約83ヘクタール)という敷地に建設されたフリーダムランドには、全長8マイル(約13キロ)にも及ぶリバーライド用の水路、8500台の自動車を収容可能な駐車場、37のアトラクションが用意されていた。その中には、1906年のサンフランシスコ地震やシカゴ大火を再現したアトラクション(ガスによって15分ごとに炎が噴き出し、子供たちは火を消すために消火栓へと走った)、そして銃撃戦のショーが毎日開かれる西部の城塞を模した一画などがあった。

 なかでも私が惹かれたのは、軌道上を走るモーターカーだった。それは乗客が道を逸れてしまうことを防ぐようになっており、現在のオートパイロットの一種と同じものだった。ハンドルを握らなくても移動できる(私は運転するふりをして楽しんだが)というのは、12歳の少年だった私の目には、歴史を再現したアトラクションよりも、ずっと魅力的で印象深いものに映った。

 1964年になっても、ドライバーのいらない自動車を普及させるというのは、単なる願望でしかなかった。しかし私も含めた多くの人々にとって、自動運転車(autonomous vehicle)は、大きな将来性と可能性を感じさせる存在になっていた。特に、クイーンズに隣接する地域で開催されたニューヨーク万国博覧会で、高架式の自動高速道路を模したアトラクションを体験した後とあっては。

 私が初めて手にした自動車は、自動推進車にもっとも近づいた車だった─少なくとも、私の心の中では。中古の1960年型シボレー・インパラで、サウス・ブルックリンにあった父の食料品店で配送の仕事をして貯めた450ドルをはたいて、1966年に買ったものだった。この車にはフィンと呼ばれた飛行機のような翼が付いていた。私は、このフィンが形を変えて大きく伸びるところを、友人たちと想像したものだった。そうすれば、飛ぶように走る感覚も強くなるだろうから。フィンが大きくなれば、高速道路で加速するときに、ふわっと浮きあがるような感覚さえ得られるはずだ。

 そしていま、大規模な「輸送の自動化」の実現がついに視野に入り、自動運転車革命も軌道に乗った。2016年10月、ウーバーの傘下企業オットーが開発した自動運転トラックが、コロラド州の高速道路を120マイル(約193キロ)走行し、ビール200ケースを運んだ。その間、人間のドライバーは寝台で休んでいた。また、テスラ車のオーナーは、自分の車にオートパイロット機能をダウンロードすることができる。この機能があれば、高速道路を走行中、ドライバーはハンドルから手を離していても、ウィンカーを操作するだけで車両が自動的に車線を変更してくれる。自動パーキング機能も、すでに多くのモデルに実装されている。スウェーデンの自動車メーカーであるボルボは、ヨーテボリの大通りで自動運転車を走らせた。他にも全世界の道路で、たくさんの自動運転車が走行している。大手自動車メーカーは一社残らず、公的・私的な研究機関と協力しながら、輸送の自動化に向けて邁進している。

 馬や馬車は、現在では観光客向けのレトロなアトラクションとなった。それと同じように、ドライバーのいらない自動車やバス、トラックが世界中で一般的に使われるようになると、人が運転する乗り物は古き良き時代の遺物となるだろう。1990年のカルト映画『トータル・リコール』には、アーノルド・シュワルツェネッガーが無人タクシーに飛び乗るシーンが登場する。このタクシーは名もなき町で、他の車両や歩行者をよけて安全に走行しながら乗客を運ぶ、無数の自動運転車の1台だった。このSF映画は2084年という設定だが、交通専門家の多くは、人が運転する自動車は2075年までに自動運転車にすっかり置き換えられるだろう、と予想している。なかには、それよりも早く、今世紀の中頃には、人が運転する自動車の時代は終わると予想する者もいる。

 ちょうど1990年代初めに、米国でイージーパス(E-ZPass)〔米国版のETCで、有料道路を利用する際に、料金所で停車することなく利用料を支払うことが可能なシステム〕が普及したように、2025年までにはハンズフリー運転が一般的になっているかもしれない。また2035年までには、運転の大部分を、人間ではなく機械が担当するようになる可能性がある。ただ人の運転する自動車が正確にいつ消えるのかは、大した問題ではない。問題は、その移行が完了するまでに、社会システムにさまざまな衝撃がもたらされうることだ。私たちはそれに備えなければならない。自動運転車は、自動車の発明以来、最も破壊的な技術となって世界中の社会を襲うだろう。未来学者や政策の専門家のなかには、人間による運転が、一部あるいはすべての道路で禁止されると予想する者すらいるのだ。

 自動運転車がもたらす影響とはどんなものか? 自動運転車によって生じる混乱が私たちの日常生活の隅々にまで波及するあいだ、人々や社会、政府はどんな選択を迫られるのか? そうした影響や選択について、本書では論じていく。それには、良いものもあれば、悪いものも、最悪なものもあるだろう。そうした問題は、家庭生活や働き方、ビジネス、政治、倫理、環境、旅行、健康、さらには幸福にまで関係する。ある推計によると、米国の全雇用の7分の1が輸送に関わっているという。トラックやタクシー、バスのドライバーから、鉄道の運転士に至るまで、世界中の輸送を人間のドライバーが担っている。誰もが自分の望む場所に行く手段、またモノやサービスを得る手段を必要とする以上、自動運転車の影響を受けない人など存在しない。私にしてみれば、目前に迫ったこの混乱はいままさに噴煙を上げている火山と同じだ─溶岩が流れ出すときには、災害への備えができていなければならない。

 ほぼすべての先進国で、突如としてウーバーのようなオンデマンド配車サービスや、他のアプリ型サービス(リフト、ゲット、ヴィアなど)が登場したが、それを歓迎した都市は少ない。パリ、トロント、ブリュッセル、またオランダ、ドイツ、スペイン、オーストラリアの一部、日本、タイ、インド、その他数十の国々で、ウーバーは大幅に規制されているか、サービスの一部もしくは全体を禁止されている。ロンドンでは、タクシードライバーによる抗議活動が起きた。ニューヨーク市では、アプリ型の配車サービスによってVMT〔走行台マイル数。交通需要を表すために、すべての車両が走った距離の総和を示したもので、10台の車両が10マイル走れば100台マイルとなる〕が急上昇しており、それが車両の走行速度の急落につながっているという調査結果が出たことで、サービスの成長を抑制する猶予期間を一時的に設ける措置を取った。

 こうした都市を、アプリ型輸送サービス時代の到来を十分に予見していなかったといって責めるのは酷だ。私を含む誰もが、人々が移動に関する習慣を、これほどすばやくかつ劇的に変化させるなどとは思っていなかったのである。また輸送の分野でこれほど急速な変化を体験した人もいない。ウーバーが立ち上げられたのは2010年だが、報道によると同社の評価額は2017年までに700億ドルに達した。そして周囲がうらやむ(かどうかはわからないが)、圧倒的な影響力と市場シェアを武器に、社会的かつ政治的に大きな存在感を持つに至った。

 しかし自動運転車の普及によってさまざまな影響が生じれば、アプリ型のオンデマンド配車サービスの普及など、輸送の世界におけるマイナーチェンジ程度にしか感じられないようになるだろう。自動運転車産業は数兆ドルのビジネスへと成長しつつあり(これは今日のアマゾンとウォルマートを足した規模よりも大きい)、そしてその規模によって、かつてないほど巨大な政治的影響力をふるうようになる。さまざまな専門家や関係者たちが、世界の自動運転車市場と、それがヨーロッパやアジア、アフリカの消費者および企業にもたらす利益について、印象的な経済見通しを示している。ボストンコンサルティンググループは、世界の自動運転車市場が2025年までに420億ドルに達すると予測している。インフォホリック・リサーチは、全世界における自動運転車の売上が2027年まで毎年39.6パーセント増加し、1268億ドルに達すると予測している。さらに大胆な見通しもある。世界経済フォーラムによれば、自動車産業のデジタル化によって、3.1兆ドル分もの「社会的利益」がもたらされる。その中には、個人が自動車の所有・維持・事故・燃料に関して支払うコストの低下、炭素排出量の減少、保険料の低下などが含まれている。さらにインテルは、2050年までに、世界の自動運転車市場が7兆ドルもの「パッセンジャーエコノミー(乗客経済=自動運転車の普及によって生まれる新たな市場)」を生み出すと予測している。ちなみに、現在、世界トップ10の自動車メーカーの評価額を合計しても、6500億ドル程度にしかならない。

 自動車が自動化された世界に対して、まったく異なる2つのビジョンが存在している。ひとつはノーマン・ベル・ゲディーズが掲げたような、自動運転車の誇大宣伝に基づくユートピア的ビジョンだ。それはすべてがうまくいくと想定しており、ドライバーのいらない自動車が「安全性・快適性・高速性・経済性」を社会にもたらすとする。そしてもうひとつは、ディストピア的ビジョンである。ディズニー映画『ウォーリー』では、人類は環境破壊によって壊滅状態となった地球から逃げ出して難民となり、宇宙船内で暮らしている。彼らはロボット化された移動装置によって介助されているため、立ち上がる必要すらなく、その結果、生き残ったホモ・サピエンスたちには病的な肥満が蔓延している。自動車事故で死亡する人が減る一方で、若いうちから高血圧や糖尿病を発症する人が増えるという、このような未来像は、自動運転の代償として受け入れることはできないだろう。また私は、自動運転車が主流となる世界では、交通システムが富裕層に有利なように整備されるのではないかと危惧している。低所得層は、品質や信頼性が低く、数も不十分で、乗り換えの不便な交通システムを使わざるをえなくなるおそれがあるのだ。もしかしたら乗換えというオプションさえ与えられないかもしれない。

 よく考えず自動運転車に飛びつくことの危険性は他にもあり、そうした懸念は輸送分野におけるトップクラスの専門家たちの間で共通認識になっている。輸送専門の未来学者バーン・グラッシュ(後ほど改めて登場する)は、「意図せざる結果の法則」を警告する。「自動運転車はスマートフォンのようになるでしょう。人々は数年で新しいモデルを欲しがるようになるのです。世界の自動車の台数は、今日の10億台から20億台へと増加し、20年も経てば40億台へと達すると考えられます。これは20世紀初頭のような状況ですよ。1900年に合衆国に8000台しかなかった自動車が、1914年には170万台にまで増えたんです。まあ、こちらのほうが1000倍も速いペースだったというのは別にしてですが」

 「自動運転車の価格は現在の平均的な自動車と同じ、2万9000ドル程度になるだろうというのがおおかたの見方です」とグラッシュは続ける。「しかし実際には、2040年には自動運転車の価格は7500ドルになるでしょう。コストダウンが進むのには、可動部品の削減や製造技術の進歩など、さまざまな理由があります。また、自動運転車を3Dプリンターでプリントアウトするようになる可能性も大いにあります。自動車をアマゾンや地元の3Dプリントショップを通じて発注して、翌日にはそれを手に入れているというような未来が、本当にやって来るかもしれないのです」。そうグラッシュは指摘する。

 さらに言えば、これから自動車は安くなるだけでなく多機能化し、中で働いたり、寝たり、遊んだりできる場になると考えられる。そうなれば、自分専用の自動車を持つというのは非常に魅力的に感じられるようになる。そして今日の携帯電話のように、頻繁にアップグレードされるようになり、人々が自動車を購入するサイクルも短くなるだろう。大部分の人々は、1台の自動車におよそ10年乗り続けるが、携帯電話はわずか2~3年で買い替える。しかし将来的には、人々は携帯電話と同じくらいの頻度で自動車を買い替えるようになる可能性がある。そうなれば、道路は使用中の自動車だけでなく、遺棄された自動車でいっぱいになってしまうだろう。

 フォード・モーター・カンパニーのビル・フォード会長は、「いまのまま突き進めば」、2050年までに「世界中で交通渋滞」が発生するだろうと警告している。さらに「いまのインフラでは、大規模な渋滞を発生させることなく、そんなにも大量の自動車を受け入れることができません。そして大渋滞によって、環境や人々の健康、経済活動、生活の質に深刻な影響が生じるでしょう」と付け加えている。グラッシュやフォードが警告する未来は、自動車の個人所有、つまり1人で過度に移動するという個人利用の傾向が続いた場合の話だ。

 自動運転車はメリットとデメリットの両方をもたらす可能性がある。一方では、移動が安全で、より予測可能なものになることで、数万人の命が救われるだろう。しかしもう一方では、トラックやタクシー、バス、そしてウーバーのドライバーが職を失い、変化した交通サービス市場に見合った、新しいスキルを身に付けることを迫られるかもしれない。自動運転車が公共交通システムを破壊したら、都市は崩壊しかねない。イーロン・マスクは次のように公共交通をこき下ろしているが、彼のようなイノベーターが何を言おうと、そのおそれは否定できないのだ。

 言わせてもらうと、公共交通はまったくひどい。最悪です。大勢の同乗者がいて、出発地点でもない場所から出発し、動いてほしくない場所で動き、目的地でもない場所で降ろされるようなものに乗りたいですか? しかも、常に運行しているとは限りません。うんざりしますよ。だからみな嫌っているんです。それに見知らぬ他人が大勢いて、そのなかのひとりが連続殺人鬼かもしれない……。だから、人々は個人向けの交通手段のほうが好きなんですよ。行きたい場所に、行きたい時間に連れて行ってくれるんですから。


 公共交通の特徴をこのように表すのは、まったくばかげている。適切に運営される交通システムは、社会や環境に莫大なメリットをもたらす。私たちが正しく行動すれば、公共交通のマイナス面は抑制することも、回避することもできる。その方法を示すことは、本書の中心となるテーマのひとつだ。

 もし指導者や都市計画を担う立場にいる人々が、目前に迫る交通革命への準備を怠るようなことがあったら、それは許されざることだ。政府が傍観する姿勢を取り、政策の決定を見送ったらどうなるか? さらには、政府がこの問題をめぐる議論や政策の主導権を民間企業に委ねてしまったら? そうなれば、私たちに災難が降りかかるのは間違いない。私たちはいま、自動運転車が生活や家族、倫理、そして環境にどのような影響を与えるかを考えねばならないのである。そのため本書では、多くのビジネス上の問題に加え、政治や社会政策の問題についても議論する。たとえば、労働組合も自動運転車に備える必要がある。なぜなら、早い段階でこの問題に取り組むことで、彼らには得るものがたくさんある一方で、遅れを取れば何もかも失いかねないからだ。都市の中心部では、自動運転車に関わる別の問題が発生する。マンハッタンのミッドタウンで会議に出席しようとしているビジネスパーソンがいたとしよう。その人が、すぐに100ドルを超えてしまう駐車料金を支払うかわりに、自動運転車に自分が呼ぶまでその辺りを走っていろと命じても、何の不思議もない。

 自動運転車は既存の高速道路の姿も変える可能性がある。自動運転車は一定のコースをきわめて正確に走ることができるため、幅6フィート(約1.8メートル)の車両に幅12フィート(約3.6メートル)の車線は必要ない。幅36フィート(約11メートル)の3車線の道路は、ラインを引き直すコストだけで、車線幅9フィート(約2.7メートル)の4車線道路へと変えることができるだろう。また近い将来、自動運転車専用レーンが生まれる可能性も高い。ただ都市の中央部では、そうやって車線を増やすよりも、車線幅を狭くした分で、バス専用レーンや自転車専用レーンを設けたり、歩道を確保したり、カフェや街路樹を増やしたりすることになるだろう。一方で郊外では、自動運転車と既存の交通機関がリンクしたり、自動運転車を活用した新しい交通システムが設計されたりするだろう。

 これらの問題は、交通の未来という「火山」からいままさに降り注ごうとしている、大量の火山灰のごく一部に過ぎない。私たちが目にしているのは、気づかぬうちに自動運転車がもたらそうとしている、これまでとは異なるまったく新しい世界の幕開けだ。まだ実感がわかないというのなら、近年、野心的な若者たちが、最初の仕事とキャリアを得るためにどこに目を向けてきたかを考えてみるといい。1980年代、そうした若者の多くは、より大きな金を動かせる仕事へと向かった。すなわちウォールストリートとその周辺である。1990年代と2000年代初頭、彼らはデータを動かす仕事へと向かった。ドットコム企業やシリコンバレー、その他のハイテク産業である。そして今日、トップクラスの頭脳を持つ若者たちの多くが勧誘され向かう先は、人やモノを動かすことに取り組む企業や組織だ。そここそが、現在、そして近い将来、多くの金が集まる場所、自動運転車産業なのだ。

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 私のお気に入りの一冊に、ジャック・フィニイが1970年に上梓した小説『ふりだしに戻る』(角川書店)がある。この中で主人公のサイモン・モーリーは、政府のプロジェクトの一環として1882年にタイムトラベルする。彼はダコタ・ハウス(残念ながら、元ビートルズのジョン・レノンが射殺された場所として有名になってしまった)に住みながら、1970年のマンハッタンと1880年代のマンハッタンを行き来するのである。1880年代というのは、私の両親がポーランドから米国へと移住してくる40年ほど前で、マンハッタンが金ぴかに輝いた時代だ。ただ、自動車はまだ生まれたばかりで、多くの人々にとっては、見たこともなければ、ましてや乗ったこともないという存在だった。この新しい発明品によって、最初の歩行者が犠牲になるのは、モーリーがタイムトラベルした年から17年後の1899年のことである(事故死したのはヘンリー・ブリスという男性だった)。この事故が起きた場所は偶然にも、ダコタ・ハウスから北に1ブロックの場所だった。

 できることなら、私自身がこの時代にタイムトラベルしてみたい。そして1880年代の人々に、将来、自動車がもたらすことについて重要な知らせがあると伝えるのである─2018年には交通事故によって、全世界で毎年130万人が死亡し、5000万人が負傷している、と。次の世紀には世界的な戦争が何度も起きるものの、20世紀に起きた戦争犠牲者の総数を、自動車によって死亡したり重傷を負ったりする人の数が上回るのだと、教えることができる。一方で、倫理的な事柄についても触れたい。自動車によって、移動時間が短縮し、経済的な繁栄を享受する人が増え、都市部に住む人でも1時間足らずで田舎に出掛けられるようになって、生活の質が向上すると伝えるのだ。しかし、私は警告することも忘れない。「物事を進めるのには、良いやり方と悪いやり方がある」と。このメッセージこそが本書のエッセンスだ。2018年の私たちのもとに、2100年から誰かがタイムトラベルしてきたと想像してほしい。その人物は、私たちの選択を称賛してくれるだろうか? それとも混乱を生み出そうとしているのを見て、頭を抱えてしまうだろうか? 私たちは、そういう分岐点に差し掛かっているのだ。


『ドライバーレスの衝撃』の紹介ページ

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