見出し画像

もっと気楽においしく食べるための科学『科学が暴く「食べてはいけない」の嘘』試し読み

「肉は健康に良くないから、魚にしよう」「親子丼食べたいけど、朝にハムエッグ食べたから卵摂りすぎかな?」「人工甘味料は危ないからダイエット・コーラはやめよう」……その心配やガマン、無用です!

「食べてはいけない!」と不安を煽る健康情報は科学的に見ると、間違っているものばかり。本書では、現役の医師が質の高い研究を厳選し、間違いだらけの食の常識をばっさばっさと斬り捨てていきます。健康に気を使う人はもちろん、意識高い系の健康ブームに疲れた人にオススメの本書から「はじめに」(抜粋)をお届けします。

■ ■ ■

画像1


医学の知られたくない事情

 赤ちゃんは吐く。それも、しょっちゅう。赤ちゃんが吐いて苦しむ、赤ちゃんの体重が増えないなどで嘔吐が問題になると、親はたいてい赤ちゃんを医者に連れていく。症状がひどくなると、私などの小児科医は特別な名前をつける。それが胃食道逆流症だ。

 医師というものは問題を解決したがるので、小児科医は胃食道逆流症の対処法をいくつか勧めるだろう。医師による助言の多くが、栄養に関するものだ。たとえば、ミルクの粘度を高くしたり粉ミルクを変えたりするよう両親に勧めることもある。それで効果がなければ、赤ちゃんをベビーシートに乗せておしゃぶりをくわえさせるか、傾斜枕を使って寝させるように助言することもある。

 だが、これまでに挙げた処置のどれも実際には効果がない。なかでも最も効果がないのが傾斜枕だ。傾斜枕とは、横から見ると三角形になっている発泡プラスチック製の枕で、長さが約六〇センチあり、一方の端がもう一方より約三〇センチ高くなるように傾斜がついている。私が研修医だったころ、臨床訓練を受けていた病院は、要望に応じて傾斜枕を作っていた。その数は非常に多く、病院は一個あたり約一五〇ドルを請求していた。傾斜枕は保険の対象外だったが、わが子の健康がかかっていると思っている多くの親が、何とかしてその額を工面した。

 私には、傾斜枕に値段ぶんの価値があるとはとても思えなかったので、医学文献で傾斜枕の使用を支持する根拠(エビデンス)を探し始めた。だが、まったく見つからなかった。この件について医師たちに説明を求めると、ありとあらゆる反応が返ってきた。「傾斜枕で寝た赤ちゃんは、症状が改善した」「医師やほかの知り合いが傾斜枕を推奨していた」「ご両親は傾斜枕をいやがらなかったし、傾斜枕は使いやすかった」「傾斜枕を使ったっていいじゃないか?」

 傾斜枕の処方を正当化した同僚の医師たちが、傾斜枕に寝かされた赤ちゃんが快方に向かったと述べたのは、必ずしも間違いではなかった。それは、胃食道逆流症の赤ちゃんはほとんどの場合、病気ではないからだ。

 赤ちゃんが吐き戻すのは、食べるものがすべて液体だからだ。赤ちゃんの食道括約筋は未熟で食道と胃の境目がきちんと閉じていないため、胃酸が胃から食道に逆流してしまう。赤ちゃんは数時間ごとにミルクを飲むし、赤ちゃんの胃は小さい。数えきれないほどの赤ちゃんで、胃食道逆流の症状が見られる。ただし、胃食道逆流症の赤ちゃんの約九五パーセントが、自然によくなる。というわけで、ミルクの粘度を高める、粉ミルクを変更する、傾斜枕を処方するなど、医師が何をしようともまったく効果はない。傾斜枕に効果があるように見えるのは、時が過ぎると赤ちゃんはお座りをし始め、それから歩き出し、固形食も食べ始めるからだ。

 効果があったような様子が見られただけで、多くの医師は傾斜枕が功を奏するのだと納得した。傾斜枕に寝かせた赤ちゃんの体調がよくなったので、てっきり傾斜枕に効果があったと思いこんだのだ。医師たちは科学的根拠を無視していたわけではない。ただ、それは確かな根拠ではなかった。

 一方で医師たちは、傾斜枕の欠点の多くを無視していた。親たちは、しばしば傾斜枕をいやがった。持ち歩くのが大変だったからだ。それに、多くの親が短時間でも傾斜枕を使わずに赤ちゃんを寝かせるのを不安がり、保育園や祖父母の家など、赤ちゃんが長く過ごす場所用として傾斜枕を余分に買う羽目になった。傾斜枕で寝るのがいやで、夜にますますむずかる赤ちゃんもいた。往々にして、傾斜枕は実際にはまったく効果をもたらさないどころか、親や赤ちゃんに苦痛をもたらすうえ、家計に負担を強いているように見えた。

 私は誤解を正さねばならないと決意した。そこで暇があるときに(研修医のころにはあまりなかったが)、調査を進め、見落とした情報がないか確認するため、それまでにもまして医学文献にくまなく目を通した。二五〇〇件以上の研究を検討し、乳児の胃食道逆流症に対し、投薬や手術をおこなわない傾斜枕などの治療法について論じていると思われるものを三五件突き止めた。

 最終的に、求めていた基準を満たすランダム化比較試験が一〇件見つかった。それら一〇件を調べた結果、前述した治療法のどれにも効果がなさそうだとわかった。この調査をまとめた論文が初めて学術誌に掲載され、これを機に、私は医学研究者への第一歩を踏み出した。

 驚いたのは、自分の論文が学術誌に載ったことではなく、ずいぶん広く読まれたことだ。それは今でも、私の論文のなかでよく引用されるものの上位に入っている。引用されることが多いのは、新たな分野を開拓したからではなく、よくある問題の背後にある研究を、体系的かつ実際に役立つ方法で集めて説明したからだ。残念ながら、健康分野の専門家はそのような検討を十分にしていない。

 これが医学の知られたくない事情である。言い換えれば、私を含め医師がおこなうことのほとんどは、あくまでも最善の推測でしかないということなのだ。医師の助言で、科学的に証明されているか、大多数の医師が全面的に支持する医学的見解に基づいているものは、ほんの少ししかない。さらに気がかりなのは、優れた根拠が確かにあるのに、無視されることが多すぎることだ。傾斜枕に関する論文によって、私はこの嘆かわしい現実を初めて垣間見た。年月とともに私の当惑はますます募り、そうした事態を明るみに出そうという決意が固まっていった。

 問題の根本は、すべての研究の価値が同等ではないということにある。それは誰でもある程度知っているはずだ。医学で驚くべき新発見があったというニュースが流れたのち、結局何年たっても成果なしということが、これまでに何度あっただろう? どれほど多くのビタミンが、長生きするため、筋肉を増やすため、やせるための「鍵」だと発表されただろう? そのくせ数年後には、それらは流行遅れとなり、世間は新たな輝かしい対象に飛びつく。

 私は、健康に関する判断の妨げになるこうした情報にひどく苛立った。そこで、医師たちが正しいと思うことを患者にしてもらおうとするより、証明ずみの正しいことをするよう医師や医療制度に働きかけるために時間を使ったほうがよいと判断した。そんなこんなで私は最終的にインディアナ大学医学部に落ち着き、保健医療研究者として働きながら健康政策・プロフェッショナリズム研究センターの理事を務めている。

 ここ数年は『ニューヨーク・タイムズ』紙でコラムを書く機会にも恵まれているので、データや根拠、研究に着目し、それらと健康や健康政策との関連について読者に説明してきた。コラムの多くは栄養に関するもので、私の記事のなかで最も人気があると言ってもいい。この分野で仕事が増えてきたことと、重要だが無味乾燥になりがちな健康研究の話題に関心を向けてもらうには食品が最良のきっかけかもしれないと気づいたことが、本書の執筆につながった。

 食の健康に関する科学的根拠(エビデンス)は切実に求められており、私はそのような情報を提供することに喜びを感じる。複雑な研究をかみ砕き、何を食べるべきかについて科学研究から実際にわかることを説明するのが好きだ。それによって、広く受け入れられている通念を一つか二つ覆すこともある。だが、食品をめぐる不当な主張の誤りを暴くことで、いいニュースにつながることも少なくない。

 本書ではまず、悪いニュースといいニュースの両方をお知らせしよう。悪いニュースは、あなたが一部の食品については心配しすぎており、一部については肯定的に受け止めすぎている可能性が高いということだ。いいニュースは、それに対する解決策があるということだ。

 本書では、栄養についてもっと賢く考えるための方法や、食品について耳に飛びこんでくることの多く──とりわけ、特定の原材料やあるカテゴリーの原材料全般は「体に悪い」から絶対に避けるようにという警告──をあまり心配せずにすむ方法をお伝えしよう。

 一九七〇年代の脂肪を控えろという注意があだとなったように、特定の食品をまったく食べないようにというお達しが出ると、人びとの健康はたいてい悪化する。じつは、スーパーで売られている食品には、腐っていたり食べすぎたりしない限り、健康に悪いものはほとんどない。もちろん、特定の食品にアレルギーがある人や、病気のために健康な人より食事を制限しなくてはならない人はいる。だが、今述べたような理由で特定の原材料を避けるように医師から指示されたのでなければ、「○○断ち」ではなくほどほどにをモットーにするといい。

 本書から受け取ってほしいメッセージを一つ挙げるとすれば、これだ。ほとんどの食品は、たとえ「おいしいが体によくない」食品でも、健康に悪いのではないか、などと心配せず自由に味わうべきだ。何を食べるかより重要なのは、どのように食べるか、特に、どれくらいの頻度でどれくらいの量を食べるかだ。違うことをあなたに言ってくる人がいるとしても、そのような意見の拠り所は、おそらく間違った情報か不十分な情報だろう。

 本書ではこれから、きわめて体に悪いとされる食品との健全な関係を楽しむための知恵をいくつか提示しよう。ただし、私がどうやってこれらの結論にたどり着いたのかを理解するためには、どのような科学的根拠(エビデンス)に注目すべきか、どのような根拠なら無視しても差し支えないのかを知る必要がある。

どのように科学研究を評価したらいいか

 食の健康に関する新しい研究成果を解釈するときには、人間はじつに複雑な動物だという点をまず覚えておきたい。私たちが何かの食品を口にする理由──ついでに言えば、ほかの何かをする理由──は、すべてではないにせよ、ほとんどの生きものよりはるかに複雑だ。人間が何かを食べる理由が、単離された細胞、つまり試験管で培養されている細胞よりずっと複雑なのは間違いない。だから、化学物質や動物だけを用いて実験室内でおこなわれた研究の結果は、よく確かめるべきだ。私は、そのような研究自体が間違っていると言っているのではない。ただ、実際の人間で研究結果が追試されたり調べられたりしない限り、それが人間に本当に当てはまるとは見なせないと主張しているのだ。

 これは、マウスやラットなどの動物を用いる研究について特に言える。小動物を用いた研究には欠陥があるということが繰り返し示されてきたにもかかわらず、そのような研究が栄養学のいたるところでおこなわれている。たとえば、マウスの餌の摂取に関する研究があるが、そこからは人間の食品の摂取について正しい結論がまったく導き出せなかったりする。また、マウスに大量の餌を短期間で与える研究もあるが、そんな研究は必ずしも人間の行動のモデルにはならない。なかには、用いるマウスの数が少なかったり、遺伝的にきわめて似たマウスばかりが用いられたり、メスが被験動物に入っていなかったりする研究もある(マウスで研究するとき、研究者はなるべく多くの要因を制御したいと思う。それに、マウス同士がなるべく似ていることを望む。だから、ホルモンの違い、さらには状況を複雑にする妊娠マウスのことを気にしなくてはならない状況はありがたくない。というわけで、メスのマウスを用いないことが往々にして楽な選択肢なのだ。ただし、それは科学的に手っ取り早い方法だとしても、そのような研究の人間に対する意義は小さくなる)。

 結論を言えば、食事のアドバイスが化学物質や動物だけでおこなわれた研究を根拠としている場合には、どれも疑ってかかったほうがいい。もっと言えば、人間の健康について主張するためには、人間を対象とした研究が必要だ。

 さらに、人間の研究でも根拠(エビデンス)の信頼度でレベル分けされる。つまり、ある研究のほうが別の研究より信頼できること、さらに特定の種類の科学的「根拠」はすっかり無視してもいいことを判断するための厳密性や信頼性の基準があるのだ。

 信頼性が最も低い研究は症例報告である。症例報告は単なる逸話だ。例を挙げよう。「私の曾祖母は大さじ一杯のタバスコを毎朝食べていました。それで一〇〇歳近くまで長生きしたんですよ」。この手の話はよくある。身内の話かもしれないし、第三者の話かもしれない。だが、いずれにせよ単なる一例だ。症例報告には、ほぼ例外なく科学的な価値はひとかけらもない。

 研究のレベルで症例報告のすぐ上に位置するのが症例シリーズである。症例シリーズは、症例を集めて美化したものだ。すなわち、少数の例に関する記述にすぎず、要因同士に関連があるかどうかや相関の強さはどの程度かを判定する統計的検定が用いられていない。たとえば、タバスコを毎日食べていた一〇人が、たまたまとても健康だったと書かれている論文があるとしよう。それが症例シリーズだ。私はかねてより、症例シリーズは、症例報告をより正式なものに見せたかった研究者によって発明されたのではないかとにらんでいる。症例シリーズは、個々の症例報告と同様に無視しよう。

 症例シリーズのすぐ上にあたる研究──結果を真剣に受け止めてもよい最初のタイプ──は横断研究だ。横断研究では通常、ある集団を対象とし、ある一時点において一つの要因が別の要因とどう関係するのかを見る。何かをしている──たとえば大さじ一杯のタバスコを毎朝食べる──人が何人いるか、といった調査について読んだり聞いたりする場合、それは横断研究だ。横断研究は、あることをしている人がどれくらいいるか──たとえば何人の男性が肉を食べているか、何人の若者が特定のダイエットをしているか──を示すには適しているが、それ以上のものではない。

 横断研究の上は症例対照研究だ。症例対照研究では、科学者は何かの病気にかかっている人びと(症例群)と、その病気にかかっていなくて諸条件が一致する人びと──おそらく年齢や性別、居住地域が同じ人びと──(対照群)を集める。それから統計学を用いて、病気の人びとと、そうでない人びとの違いを調べる。たとえば、胃がん患者の一群と胃がんでない人の一群を研究対象とする。そして、大さじ一杯のタバスコを食べるかどうか、食べる頻度はどれくらいかを両方のグループに尋ねて結果を分析する。これが症例対照研究だ。症例対照研究は前述したほかの研究より優れているが、「思い出しバイアス」というバイアスの影響を受けることがある。過去にあったことを振り返る場合、病気の人は特定のことを覚えているのに、病気でない人は覚えていないことがあるというように、思い出し方に偏りが生じる可能性があるのだ。このバイアスは、食生活に関する研究を含めて健康分野の研究でつねに現れる。たとえば、まれな病気にかかっている人びとは、特定のものを食べたと報告することが健康な人びとより多い。特に、それらの食品が「体に悪い」と聞いたことがあれば、それを食べたことをよく覚えている。

 症例対照研究より優れた研究がコホート研究だ。これは、対象集団(コホート)を一定期間追跡し、特定の要因がどんな影響を及ぼすのかを見る研究だ。たとえば、特定の食品がどの程度の体重増加をもたらすか、または病気の原因になるかといったことを観察する。ふたたびタバスコの例を挙げれば、集団のなかで大さじ一杯のタバスコを毎日食べる人びとと、そうでない人びとの経過を追い、彼らの健康状態にどんな傾向が現れるかを見る。そして、これらの傾向とタバスコ摂取との関連を探る。コホート研究には、後ろ向き研究(過去にさかのぼって、ある集団に起こったことを評価する)と前向き研究(研究開始以降の一定期間に、ある集団に何が起こるかを評価する)がある。ほとんどの場合、コホート研究は症例対照研究より優れており、思い出しバイアスの影響を受けにくいが、コホート研究も十分ではない。

 これまでに挙げた研究は、すべて観察研究と見なされる。観察研究で明らかになるのは、異なる要因同士に相関があるかどうか、つまり関連があるかどうかだけだ。言い換えれば、観察研究では因果関係は証明できない。たとえば、タバスコを食べている人びとのほうが、そうでない人びとより太っていることが多いということは観察研究からわかるとしても、それは必ずしもタバスコが体重増加の原因であるという意味ではない。体重増加には別の要因が絡んでいる可能性もある。ひょっとすると、タバスコを食べている人びとは肉もたくさん食べており、それで体重が増えるということもありうるのだ(ちなみに、これは架空の話だ)。

 相関関係を因果関係と取り違えることは、健康研究の報告で特に蔓延している問題の一つだ。何かの食品と何かの健康問題とのあいだに関連が見出された観察研究にメディアが飛びつき、その食品がその健康問題の原因だと伝えるケースが多すぎる。だが、観察研究ではけっして因果関係を証明できない。

 単なる相関関係ではなく因果関係を証明するためには実験研究が必要だ。実験研究では、人びとを集めていくつかのグループに分ける。あるグループの人びとには特定の介入をおこない(特定の薬を服用してもらったり特定の食事をしてもらったりする)、ほかのグループの人びとには別の介入をおこなう。理想的な研究では、被験者はこれらのグループにランダムに振り分けられる。だから、研究に関わる者は誰も、どの被験者がどの介入を受けるかを決められない。そうすることで研究者は、グループ間に認められた違いが研究対象にしている要因によるものであって別の要因によるものではないと確信できる。さらに、本当に優れた実験研究では、特定の介入を受けるのではなくプラセボを与えられる被験者のグループ、すなわち対照群が比較対象として設定される。この方法では当然、被験者も研究者も、どの被験者がどんな介入を受けているのかがわからないので、意図せず結果に影響を及ぼすこともない。このような実験研究、つまり最上位にある研究はランダム化比較試験と呼ばれる。

 健康に対する食事の影響を見極めたければ、ランダム化比較試験が最高の手段だ。ランダム化比較試験は、観察研究より上に位置づけられる。なぜランダム化比較試験が最高なのかと言えば、因果関係を立証できる──あることが別のことを引き起こすことを一貫して証明できる──のは、ほぼこの試験だけだからだ。

 ついでに言えば、ランダム化比較試験は非常に少ない。その理由はすぐにわかる。ランダム化比較試験を実施するには、研究者は多くの被験者を集めて適切に登録し、被験者にどんな介入をすべきかを決め、一定期間にわたり一人一人の経過を追いながら研究を実施し、結果を評価・分析しなくてはならないのだ。私は自分のキャリアで何度かランダム化比較試験をおこなったことがあるが、試験には何百万ドルもの費用がかかることがあり、実施すること自体が非常に難しい場合もある。

 ランダム化比較試験はきわめて少ないので、食の健康について私たちが「知っている」情報はほぼすべて、小規模で欠陥のある観察研究に基づいている。観察研究から引き出せる結論は限られており、結果が研究者やメディアによって過大評価されることも少なくない。この点は、最近の研究だけでなく、目下真実だと思われている知識のほとんどの基礎をなす昔の研究にも当てはまる。

 優れた研究はめったにないが、幸いにも、そのような研究の影響力を最大限に生かす方法がある。システマティックレビューとメタ分析だ。システマティックレビューは、質の高い研究を集めて知見を要約するという方法である。一方メタ分析では、複数の研究を集め──通常はランダム化比較試験から──、うまくデータを統合し、あたかもそれらが一つの大規模な研究のデータであるかのように、まとめて解析する。

 私は研究について論じるとき、メタ分析やシステマティックレビューを引用しようと努めている。本書でも、なるべくその基準に沿うようにした。単独の研究に着目するのではなく、一連の研究について語ろうと心がけている。そして、個々の研究を引き合いに出すときには、なるべくランダム化比較試験か大規模なコホート研究を取り上げ、それらを医学文献の文脈のなかで捉えるようにしている。ラットの研究より人間を対象とした研究を重視するし、介入のアウトカム(成果)については、プロセス指標(血圧やコレステロール値)より真のアウトカム(心臓発作の発生率や死亡数など)に重きを置く。プロセス指標は本当に大事な真のアウトカムと関連があり、そのアウトカムにつながることもあるかもしれないが、プロセス指標から得られる情報は、アウトカムに関するデータほど当てにならないし、情報として欠けている可能性がある。

 本書では全体を通して、質の低い研究が栄養に関する決断を間違った方向に誘導したケースを取り上げる。また、いかに優れた研究が無視されてきたかについても指摘する。ただし、なにしろ食の健康に関する既存の研究のほとんどは、健康な大人に対する食品の影響を判断するという点では限界がある。だから、本書では「悪い」食品をめぐる多くの通念の誤りを暴くことになるし、そこから話を一歩進め、あなたが好きなのに食べてはいけないと思っている原材料について、いいニュースをたくさんお伝えしていきたい。


『科学が暴く「食べてはいけない」の噓』紹介ページ

最後までお読みいただきありがとうございました。私たちは出版社です。本屋さんで本を買っていただけるとたいへん励みになります。