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【広告本読書録:045】やってみなはれ みとくんなはれ

山口瞳 開高健 著 新潮社刊

さていよいよこの広告本読書録も「本当にこれが広告本なのか!」と首をかしげたくなるような領域に触手を伸ばしはじめております。でも椎名誠風にいえばうるさいうるさいだまれだまれなのだ。誰からもお金をいただいているわけでなく、さしたる社会の役に立つでもなく、誰かの人生にほんの少しなりとも影響を与える…可能性すらないこの広告本読書録。選書については徹頭徹尾私事でやらせていただきます。

いや、でもそもそも開高健さん、山口瞳さんともにコピーライターですからね。偉大なる芥川賞・直木賞作家であると同時に。だから、そういう人たちが著した書物、しかもサントリーの社史。そしてサントリーといえば創業以来の広告上手。あのサン・アドを産みの親でもあります。これを広告本と言わずしてなんというか。

この『やってみなはれ みとくんなはれ』は文庫になっていて、比較的手に入れやすいです。ちょっとでも興味ある方はマストバイです。ぼくはこれをもう何十回、少なくとも百回は読んでます。おかげでボロボロで、買い換えようかなともおもっているぐらい。それぐらい面白くって、ためになって、ちょっと泣ける、読み応えがある名作です。

前半・後半の華麗なる役割分担

ではいったいどんな書籍なのか、解説します。これはもともとサントリー株式会社から刊行された社史「やってみなはれ サントリーの70年Ⅰ」に収録された後、前半と後半に分けた形で昭和44年の小説新潮に掲載されたもの。つまり最初は社内限だったものが、その文学的価値を認められて一般文芸誌に掲載されるという非常に珍しいケースの書物なのであります。

それは、著したふたりがそれぞれ文壇でその名を轟かせた人だったこともありますが、それ以上にその中身によるものが大きいと、ぼくは考えます。サントリーの社史、ということ以上に創業者である鳥井信治郎の伝記としての面白さが、多くの人を惹き付けるのでしょう。

まず前半は山口瞳先生による「戦前編」。タイトルは『青雲の志についてー小説・鳥井信治郎ー』とあり、山口先生が勤めていた出版社の倒産により無職となり、開高先生が勝手に募った編集員募集の記事を見て応募した寿屋宣伝部に入社するシーンからはじまります。

もちろん山口先生は昭和33年入社です。このことからもわかるように、単純に時系列で鳥井信治郎の生き様を描写していくものではなく、自分自身と寿屋との関わりや、取材風景、つまりこの本が書かれたリアルタイムの場面までも交錯させながら、フィクションのような、まさしくタイトル通り小説のような体裁でいきいきと描かれているのです。

一方後半はその山口先生を寿屋に巻き込んだ張本人(?)である開高健の手による「戦後編」。その名も『やってみなはれ ーサントリーの七十年・戦後編ー』とあります。こちらはまさに戦後そのものということで、開高先生が少年時代に目の当たりにした焼け野原での“バクダン”屋のシーンからはじまります。

そこから鳥井信治郎の戦後復興へのなりふり構わぬ猛進ぶり、次男佐治敬三との面白おかしい確執、宣伝活動への才覚発揮、愛すべき人柄などなど、作家・大開高の筆が踊ります。さらに話は信治郎没後、佐治敬三時代のサントリー大航海へと進んでいくのですね。

自分のことを芥川賞、直木賞作家に描かれることになるとは、さしもの鳥井信治郎も生前、夢にも思わなかったことでしょう。開高先生も山口先生も寿屋の叩き上げだったOBの老人や長老と言われている社員たちに取材を重ねて、鳥井信治郎像を形作りました。しかしその解像度の高さ、まるで見てきたような人物描写の妙には、やはりふたりの文豪の手仕事が生きていると断言できます。

戦前編のキモ

前述しましたが戦前編は山口瞳が寿屋宣伝部に職を得るところから描かれています。もちろん前述の通り、社史とはいえ私小説風。時間の流れも山口瞳の筆の向くまま、思いのまま。ただそれが単なるドキュメントではなく、極上の物語としてのクオリティを担保しているのもまた事実であります。

大きくとらえて戦前はサントリー創業者、鳥井信治郎の立身出世伝なわけですが、筆者が伝えたかったのは「なぜ、サントリーの社員はみなこうまで熱いのか」ということに尽きるとおもいます。そのディティールが全てであるといってもいいほど。そのために山口瞳は自身の父親と鳥井信治郎を比較して『明治時代の起業家マインド』について語っています。

今日、私が一杯のサントリーを飲むことは、明治の青雲の志を飲んでいることにならないか。私は実感としてそう感ずる。

ちなみに生前、鳥井信治郎は自分のことを「社長」とは絶対に呼ばせなかったそうです。三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、寿屋などは大将でいい。会社員やないで、学者やないで、技術者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念でした。だから「大将」と呼べ、と命令を出したんだそうです。

そんな大将の人となりを描いている箇所はいずれも「さすが文豪山口瞳」と思わず舌を巻くほど。それも本人そのものを描くのではなく、取材を通して飛び出てくる数々のエピソードを積み重ねることで、読者を自然と“鳥井信治郎ファン”に取り込んでいく魔力があります。

当然、ここでいくつかのエピソードを引用することもできるのですが、それは手品で言うところのタネ明かし、漫才でいうところの笑いの解説ぐらい野暮なこと。ぜひみなさんも文庫版を手にとって、おもいおもいの角度から人間・鳥井信治郎を堪能していただきたいです。

そして、前半のテーマである「なぜ、サントリーの社員はみなこうまで熱いのか」の答えですが、これは間違いなく大将の言動すべてが本物だったからではないか。そして、その大将の口癖が「やってみなはれ、やってみなわからしまへんで」なのであります。

山口が入社を請うていたときの開高健は「まあ、ええ会社やで」といいます。入社後の上司、杉村正夫は「ええ会社やで。平井さんはええ人やで。佐治さんときたらもう、あの中坊んは、どないしてなかなか…」と涙でうるむような目でいいます。平井さんというのは平井鮮一常務で、この方のエピソードも読むと胸が熱くなるのでぜひ本書にて。

その他、叩き上げの社員を集めて昔の話を聞く山口と開高の前で、80歳を超えた老人たちが熱く、涙ながらに語るのです。大声で笑うのです。愛社精神というようなナマやさしいものではなく、大将も若(長男の吉太郎)も中坊ん(次男の佐治敬三)も、父であり兄弟であり友人であったのでしょう。

ぼくはここに、平成の間に日本の企業がすっかりなくしてしまった『絆』のようなものを感じずにはいられません。いま、グローバル化がどうこう叫ばれています。古い日本の在り方が否定につぐ否定をされ続けています。でもたぶん、それは間違っていて、日本という国のアイデンティティとはとどのつまり、こういうところに息づいているのではないかとおもうのです。

あとがきを一部引用します。

『小説・鳥井信治郎』にするためには、社内の熱気を理解してもらわなければいけない。そうやって「青雲の志」にぶつかった。「明治のこころ」である。自分でも驚いているのだけれど、私は、なにを書いても私小説風になってしまう。それがいいかどうか分からないけれど、私が念じたのは、当代にもっとも希薄になっていると思われる「何ものか」を、いまの若いサラリーマンに理解してもらいたいという一事だった。それを「青雲の志」と名づけたのである。

もちろんぼくは右翼でも左翼でもない、ガッチガチのノンポリですし、イデオロギー的にも極めてフラット。懐古趣味とか、昔はよかったとか、そういうことを言うつもりもさらさらないんですけどね。

戦後編のキモ

さて後半を担当するのは大開高の手による戦後編。焼け野原となった大阪からいかにサントリー、当時の寿屋は復興を果たすのか。そして創業の種である赤玉ポートワインからウイスキー事業へと大きく舵を切った後の成功譚、さらには新たなるビール事業へのチャレンジに至るまでが描かれています。

その時間の経過に伴い、大将は一線を引き、そして静かに天寿を全うすることになります。後編は若き開高が闇市で粗造ウイスキーにビックリするシーンからコミカルにスタートするのですが、キモは完全にこのシーンでしょう。長くなりますが、引用します。まるで映画のワンシーンのようです。

本も読まず、議論もせず、ただ平静に息づきながら老人はコタツに足を入れて寝そべり、少しはなれたヴェランダで長男、次男、三男の孫たちが入れかわり立ちかわりやってきては声をあげて遊び回るのを眺めているだけであった。終日彼はそうしていてあきることがなかった。幼女や幼童の毒のないきれいな肌に陽がまるで染み透るようであるのを老人はまじまじ眼を瞠って眺めていた。よくまわらない舌で何か新しいことや、おどろくほど痛烈なことや、ヒリヒリするほど鋭いことをつぎつぎといいちらかして子供がたわむれている声を聞いていると、老人はひそかにこれだったのだ、ついにこれだったのだと思うのだった。

小さな佐治春恵がちょこちょこやってきて枕もとにすわり、老人の頭の髪が薄くなって夕日の射すあたりを指でいじりつつお年玉の値上げを要求する。
「おじいちゃん」
「何や」
「お年玉少いねン」
「そうか」
「もうちょっとほしいねンけど」
「何ぼほしいねン?」
「百円やねンけど」
「あげよ」
老人は孫をみんな呼び寄せ、信忠、春恵、信吾、雅子一人一人の小さな手に百円を配った。孫たちはいっせいにざわめき、黄昏のスズメの群れのようにはしゃいでお礼をいい、すぐ忘れてちらかる。老人はふたたびよこたわり、肘枕して、じっと眼でそのまなざし、その声、その笑いを追う。

もし誰か深い声を持つ人が枕もとにすわり、『梁塵秘抄』の白拍子のうたを読んで聞かせたら、老人はさいごのどよめきをくまなく味わったことであろう。いいつくされたと感じたであろう。生涯がついにそこで完成されたと感じたであろう。

このあと、梁塵秘抄の「あそびをせむとや うまれけむ…」が詠まれてこの章は終わります。いったい、人生の幕引きをここまで映像が浮かぶように文字に起こせる作家は果たしてどれほどいることでしょうか。ぼくは世に数多ある開高作品の中で、個人的にはもっとも胸に迫ってくる一節がこれではないか、とおもっています。いやもちろん違うという意見がたくさんあるとおもいますが。

そして、昭和37年2月20日、鳥井信治郎は息をひきとります。しかし、サントリーのやってみなはれ物語は止まることがありません。ここから主役は佐治敬三にバトンタッチ。ストーリーも開高入社前のサントリー宣伝部全盛期、そしてビールづくりへの苦闘へ。

佐治敬三が旗振りとなり、開高健も同行してのヨーロッパ視察の旅を経てサントリーは本格的にビールづくりに前進します。しかしこれがウイスキーの時同様、いやウイスキー以上の苦難をサントリーに与えることになります。

しかし、全体を通してみると、先代・鳥井信治郎のエピソードと比べいくぶんマイルドというか、薄味に仕上がっているように感じます。これはもうやむをえないことなのでしょう。

もちろん佐治さんと開高さんは社長と社員という関係を超え、親友、いや戦友といってもいいほどの絆で結びついています。ゆえに筆に油がのって然るべき。(この二人の関係性についてはまたいつか『最強のふたり』という本の読書録で詳しくご紹介いたします)

と、ここまで書いてふとおもったのですが、もしかすると、ほかでもない大親友・佐治敬三のことを描くからこそ、開高先生は一歩引くというか、一枚レンズを置いた表現をあえてとったのかもしれません。素材として扱うにはあまりに近すぎる。その距離感故、意図的に薄く語ることが是であるという作家の嗅覚がそうさせているのかも。

そうおもうと、その視点でもう一度読み返したくなりました。

なにが広告づくりに活かせるか

それはやはり、サントリーという『稀代の広告宣伝上手』がどのような考え、思い、行動、飛躍をもって広告宣伝活動と向き合ってきたか、ということがわかる点に尽きます。

まずもって鳥井信治郎の時代より、というよりも鳥井信治郎そのものが宣伝の力を強く信じていたこと。そして実際にさまざまなアイデアをいち早く実践し、成果をあげていたことがすごい。それもただの広告表現を云々するのではなく、きちんと人・モノ・金が動くキャンペーンを仕掛けていた点。

寿屋では赤玉ポートワインの函の中にハガキをいれる。小売店がそれを返送してくる。そのハガキを一年に一回計算して、一函につき70銭を直接小売店に送った。つまり、リベートである。このハガキはダイレクト・メールの貴重な資料にもなった。これが開函通知である。
それとは別に函入景品をつけた。函の中に、店員様へと書いた袋が入っている。袋には、万年筆、シャープペンシル、ナイフ、手帳、キイ・ホルダーなどがはいっている。これは淀屋橋のロンドン屋、神戸のレンクロフォードやトムソン紹介などで信治郎が見つけてきたものを見本として、特別注文でつくらせたものである。従って類似品のない、モダンなものばかりである。

どうですか、この巧みな人心掌握術。完全にノベルティの走りといえる事例ですよね。これによって店員が競って赤玉ポートワインの函をあけたというんですから。寿屋のファンになるのも当然です。ちなみに大将は食べ物についてはパンにヨーカンとかビフテキにマーマレードとかヘンコツ趣味そのものでしたが、装束に関してはハイカラさんでおしゃれだったといいます。

大将は後に“広告の天才”といわれる片岡敏郎を森永製菓から引き抜きます。そして歴史的な『赤玉ポートワイン』のヌードポスターをものにするのでありました。このあたりはまた片岡敏郎の本で取り上げます。

そんな大将のDNAはしっかりと宣伝部に受け継がれます。戦後、経営トップを任された佐治敬三が三和銀行宣伝部から山崎隆夫をスカウト。山崎は柳原良平を連れて寿屋に入社します。そこへ坂根進、杉木直也、酒井睦夫、開高健など綺羅星の如く才能が集まってくるわけです。

このあたりの描写は開高自身の手によるものだけに、やや自虐的に描かれているものの、読み応え十分。彼らはあくまで“アマチュア”であると自負し、宣伝活動の仕事を心から楽しんでいる様子です。

そろそろ結論を。

この本から学べることは『広告とは人のこころを知り、人のこころを動かすことを心得ないことには、その効果を存分に発揮させることはできない』ということです。

そして、良い広告づくりには土壌が必要で、その土壌とは「託して任せる」こと。「思いっきりやらせる」こと。サントリー宣伝部のボス、のちにサン・アドの大将となる山崎隆夫の口癖は「ほん機嫌よう遊んでや」でした。まさしく、やってみなはれ、みとくんんなはれですね。

ぼくはこの本を読み返すたびに「やってみなはれ、やらなわからしまへんで」という大将の声がどこからともなく聞こえてくるようで、明日書くコピーをもっともっとチャレンジングなものに仕上げようと意を決するのです。



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