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はじめての転職

目黒の広告代理店を辞めよう、と決めたのは入社2年目の春である。いい会社ではあった。楽しい職場でもあった。しかしある日唐突に「辞めよう」とおもった。一度おもうともう止まらない。やめられないとまらない。人生はかっぱえびせんなのである。

ある撮影の時、スタジオで馴染みのカメラマンに「オレ、辞めたいんですよね…」とつぶやくと、あっという間に汐留にあるプランニング事務所を紹介してくれた。

カメラマンはなぜかうれしそうに「そうだろうそうだろう、若いウチはどんどん会社を変わってね、どんどん給料を上げてサ。ソレソレーッ!」とぼくの背中を叩いた。世はバブルが弾けたばかりであった。

■ ■ ■

当時の汐留は漆黒の闇に包まれる「地の果て」感あふれる僻地であった。その会社は電通系のプランニング会社で、三部屋あるマンションの一室を使っていた。残りの二部屋はそれぞれ同じグループで活動しているデザイン会社とリサーチ会社だった。

黒のタートルネックを着た、痩せたプランナーはぼくの履歴書と作品を見てプランニングに興味はないか、これからは企画ができないと仕事にならないよ、というようなことを言った。いまなら「おっしゃるとおりですね!」と気も話も合う無二の親友になれたかもしれない。

しかし当時のぼくは視野も狭く、考え方も固く、将来を見通す力もなく、前髪だけはいまより豊かなガキんちょだった。コピーが書けないのならそれはぼくが働くべき会社ではなさそうですね、とその場で断りを入れた。

「まあ、考えが変わったらまた連絡してよ」とタートルネックは名刺をくれた。そして「ちょうど金曜だからオフィスでビアパーティやるんだけど、飲んでいけば?」と誘ってくれた。いまなら「うひょう!ぼくビール大好きなんですよいいんですか?」と人懐っこく輪の中に入っていくだろう。

しかし当時のぼくは人見知りで、可愛げもなく、大人と何喋ったらいいかわからず、そもそも話すに値する知識や教養を持ち合わせていないただの名古屋出身者だった。いえ帰ります、と誘いを断りオフィスをあとにした。

(なかなかうまくいかないな…転職って)

まだまともな転職活動もしておらず、人のご厚意で紹介いただけた一社目が甚だ勝手ながら自分のやりたいことと違っていただけなのに。何いってんだとおもう。タイムマシンがあれば間違いなく泣かせたる。

■ ■ ■

その頃、ちょっとした人づてで知り合いになったフリーランスのコピーライターの先輩がいた。年齢は10個ぐらい上なのだがたいそうかわいがってくれて、ぼくも立ち上げたばかりの先輩の事務所に足繁く通っては、アルバイトとしてちょっとした下調べなどを手伝っていた。ギャラは飲み屋でのゴチだったが、まったく不満はなかった。

その日も朝から会社のホワイトボードに『T&Y広告制作所・直帰』と書いていそいそと先輩の会社に遊びに行っていた。先輩は目が笑っていないのと、極度の人見知りのせいで、めったなことでは他人と親しく交わることのない人だった。

ぼくも最初は「この人なにかんがえてんのかな…」と距離を測りながら付き合っていたのだが、ある時、二人の間に共通する趣味があることがわかった。それ以来、弟のようにかわいがってくれるようになったのだ。

「あー、もうオレ会社辞めたいっすよー。どこかいい会社ないですかねー。若くて才能のあるコピーライターがここにいるんですけどねー。ちなみにT&Yで雇ってもらってもいいんですケド…」

というような図々しい話をベラベラしゃべっていたら、先輩が「そういえば…銀座の制作会社で若手のコピーライターを探していたなぁ」というではありませんか。ぼくはあわてて「ください、ください!それ、教えてください!」と喰い付いた。

■ ■ ■

翌週の月曜日、ぼくは銀座にある『アドエッグ』という会社の受付にいた。読広や一企などとパイプがあり、結構メジャーなクライアントを抱えているという。いくつかの作品をポートフォリオにまとめて面接に向かった。

迎えてくれたのは恰幅のよいクリエイティブディレクター。ゴルフ焼けして精悍な表情だ。ヒゲも蓄えて、まさしく“ザ・ギョーカイ人”である。彼はぼくの作品集をパラパラみながら言った。

「結構いろいろ書いてるね。いま…いくつ?」
「はい、今年2になるところです」
「2?32?32にしては老けてるな」
「え…」

ぼくは21歳の誕生日を迎えて半年、といったところだった。しかしここで話を混ぜっ返すのはよくない。ある程度、年齢がいっていたほうが即戦力としてみてもらえるかもしれない。そのときはもしかすると給与もドーンと上がるかもしれない。そこで黙ってクリエイティブディレクターの次の言葉を待つことにした。

「いま、席の空きがないんだよね」
「そこを、なんとかなりませんか」
「うーん…ちょっと待って」

そう言うとクリエイティブディレクターはおもむろに受話器をとってどこかに電話をかけた。電話の向こうとは親しい間柄のようで、短いやりとりで終わった。

「うちはダメだけど、一社紹介するから」
「え?あ、はい…」
「今から行ける?地図書いてやるよ」
「あ、はい…」
「キミがもうちょっと若かったらね~」
「……」

■ ■ ■

そうして指定された飯田橋の喫茶店で『レキップ』という会社の代表、保坂さんと出会った。その時点でぼくは目的と手段を見失っていた。転職さえできればいいとおもうようになっていたのだ。たった二社ダメだっただけなのに、ぼくは慌てていたのである。

「イワブチさんからは32歳って聞いてるけど…」
「いえ、22です」
「うーん、若いなあ。即戦力がいるんだけど」
「作品を見てください」

保坂さんは逆に30歳前後がほしかったらしい。どこまで裏目にでるのか、と自分の不運を恨んだが、実力ならある!と根拠のない自信でポートフォリオを差し出した。

「ふむ…ふんふん、なるほど」
「いかがでしょうか?」
「これは早川くんがひとりで作ったの?」
「はい、コンセプトからライティングまで」
「結構、やれるんだね」
「は、はいっ!そうなんですよ(キラリーン☆)」

根拠のない自信をガッチリ肯定され、謎の自尊心が満たされたぼく。じゃあ、ウチでがんばろうか!というひと言に即答したのはいうまでもありません。ちなみに給与は現職の12万円から1万円アップの13万円に。「ちょっとした転職祝いだ。もちろんこんな額に満足してもらいたくないがね」保坂さんはアメリカ映画のワンシーンのような口調で握手を求めてきた。

こうしてぼくのはじめての転職は、求人広告や人材紹介などといったサービスを一切介することなく行なわれ、そしてなんとか成功した。

■ ■ ■

しかしそこからが大変だった。まずひとつは目黒の会社を辞めるのにひと苦労したということ。「部長、お話が…」と切り出すと何かを察したのか、今夜空けとけと。居酒屋で退職を切り出すと「まあ、待て」と。翌日は課長が、その翌週には社長室長までもが飲みの場をセッティングしてくれた。

おまけにその月の給与明細を見てびっくりしたのが、いきなり給与が3万円も上がっていたのだった。人事総務で仲良くしていた女のコにこっそり聞いてみると、特例なんだって、と耳元で囁かれた。なんだよ、給与、転職後に下がっちまうのかよ。

しかし、当時の頑固なぼくを止められるものはなく、強行突破のようなカタチで退職日を迎えた。なんと社長や会長には挨拶もせずに、逃げるように辞めてしまったのだ。

そのことを送別会で同期入社の美人デザイナー、ユキちゃんに話すと「ヒロちゃん、そういう辞め方ってよくないのよ。きっと次のところで苦労するわよ。案外すぐやめちゃったりね」と不吉なことを言う。

そしてユキちゃんの予言どおり、ぼくはレキップを半年あまりで辞めることになるのでありました。それはまた次回の講釈で。

みなさん、くれぐれも「転職は慎重に」。

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