頑なにこだわること
求人広告代理店でコピーライターとしてそろそろ2年目が終わろうという頃。
心底「つまらない」と思っていた、いわゆる求人雑誌媒体の仕事は卒業しており、社内で「企画もの」と呼ばれるパンフレットやリーフ、あるいは技術系専門誌に掲載される広告制作に夢中になっていました。
媒体系の仕事との大きな違いは、予算の大きさと表現の自由度が圧倒的に違う点。そして制作物が紛れもなく「作品」になるところです。
そりゃあそうでしょう、マル描いてチョンみたいな落書きにそれっぽいキャッチフレーズをつければ完成するアルバイト求人雑誌の小さなコマ広告に対して、デザイナーと打ち合わせしてコンセプトワーク、企画書やカンプ作成を経てプレゼン、という制作前から大掛かりな企画ものです。
しかも実制作ともなればロケ先やスタジオでの撮影があったり。関わる外部クリエイターもフォトグラファーからスタイリスト、小道具制作者など一気に世界が広がるわけ。気分はいっぱしのクリエイターです。
そうすると広がった世界から魑魅魍魎たちがあの手、この手で甘い言葉を耳元でささやくようになります。
「いつまで求人で燻ってんの?」
「若いんだからどんどん会社移らなきゃ」
「転職イコール経験値だよ」
「もったいない、いいもの持ってるのに」
世間知らずの21歳にはたまらない甘言の数々。
ある日、何度か一緒に仕事をしたフォトグラファーのOさんから「ちょっとちょっと…」とスタジオの裏の倉庫に呼び出されます。
聞けば汐留のほうに事務所を構えるプロダクションが、若くて活きのいいクリエイターを探しているとのこと。その会社はイベントやメッセを中心に手掛けるプランニング会社で、取引先は電通が100%だからかなりおいしい仕事ができるはず、という触れ込みでした。
やけに具体的に話を進めてくるフォトグラファー。いまから思えばいくらか報酬のようなものがあったのかもしれません。
「男なら大きなステージで勝負すべき」
「君はこんなところにいてはいけない」
「僕も目上の人からの紹介で転職した」
「この先も一緒に仕事をしていこうよ」
「イベントやメッセはこれからの主流」
「ここで実力を伸ばしておくべきだよ」
かなり熱のこもったプッシュぶりに、少しタジタジになりながら、ありがとうございますとひとまずお礼を伝え、社に戻ってスケジュールを確認してから連絡します、と頭を下げました。
翌週の金曜夜、件のプロダクションにお邪魔することになりました。案内通りに事務所を目指して歩くのですが、当時の汐留はこれが本当に東京都心かと思えるほど薄暗く、人気もない地の果てそのもの。
それもそのはず、貨物駅跡の広大な土地が放置されたままだったのです。かつては東京の玄関であった汐留は次に貨物の町としての賑わいを見せます。しかしその役割すら終えるとまるで息絶えた恐竜のように朽ち果て、寂れていました。
そんなまっくらな中、ぼうっと灯りが点っている一画がありました。目当てのプロダクションは小さな雑居ビルの1階を3フロアも借りていました。
「やあ、ようこそ」
そう言いながら笑顔で出迎えてくれたのはその会社の専務でした。名刺には「プランナー」とあります。
間接照明だけのおしゃれな空間でプランナーの仕事の素晴らしさ、プランニングの奥深さ、プランニングこそがクリエイティブであるとの持論、代表の才能と実績について滔々と語ってくれました。その中にはぼくでも知っているメジャーなイベントやプロモーションも含まれています。
そしてあと30分ぐらいで代表が戻ってくる、今日は金曜日だからこのあと他のスタッフも交えてみんなでビアパーティをやる、参加するよね?とごく当たり前のようにこのあとの流れを説明してくれます。
「で、いつから来れるの?」
「は?」
「いつからウチで働けるの?」
「あ、いやあ…」
知らないうちになんだか抗えないような大きな力で「プランナー見習い」になってしまうことに、なぜでしょうか言葉にならない拒否感、抵抗感を覚えました。
「あの、ぼく…」
「なに?」
「ぼくはコピーライターになりたい、っていうかコピーライターになるために…」
「なにいってんの?そんなのよりプランニングやらないとこの先やっていけないよ。プランニングやりながらでもコピーなんか書けるんだからさ」
コピーなんか、という言い方にカチンときました。ただ本物のギョーカイの大人に歯向かうだけの知恵も言葉も胆力も持ち合わせていません。
そのままビアパーティがはじまるといわれて隣の部屋に移ります。そこではやはり同じような間接照明の下、5~6人のお洒落な男女がバドワイザーやハイネケンなど外国産缶ビールを飲みながら談笑していました。
「あ、サダさん、ん?誰この子」
「ああ、ウチのホープ」
「えっ?新人さん?採用したの?」
「将来有望な期待の新人だよ」
「わーっ!すごいね、君、よろしく!」
そこで何を喋ったのかまったく覚えていませんが、とにかく何を話してもまったく相手にしてもらえなかったことだけは記憶に刻まれています。話が通じないというより言葉が届かない。いまにして思えばそれは社員たちによる集団面接だったのかもしれません。
ほどなくして代表と言われる人がやってきて、名刺をくれました。そしてあらためて代表を交えてビールで乾杯したのち「すいません今日はこれで…」とその場から逃げるように自宅アパートに帰りました。
なんだかすごく、もやもやとした、嫌な気持ちでした。
月曜日、仲介してくれたフォトグラファーに電話をして、選考を辞退したい旨を伝えました。フォトグラファーは怒り心頭で、かなりきつい口調で詰ってきます。もう一度考え直すように、と何度も説得されました。
どうしてあんなにいい話を断るのか、と聞かれたので、自分はコピーライターをやりたいのだと答えました。小学生のように何度も繰り返して。
あきれたよ、もう君とは仕事をしたくない、とまで言われて電話が切れました。
その後のぼくは仲良くなったフリーランスの先輩の口利きで読売広告社傘下のプロダクションに行き、ほどなくして六本木のアウシュビッツとの異名を取るほどスパルタンなコピーブティックに移り、完全に才能のなさに挫折して居酒屋のアルバイトとして働くようになります。
もう一度コピーライターの名刺を持つようになるまで、そこから5年の月日がかかりました。そしてリスタートを切ったのは何の因果か、あれほどつまらないと思っていた求人広告媒体のクリエイティブでした。
もしあの時、メジャーな仕事や憧れの電通銘柄に惹かれてプランナーの道を選んでいたらどうなっていたんだろうか。もしかしたら超カッコいいスタークリエイター(笑)として時代の寵児になっていたかもしれません。
だけどぼくはいまの自分の仕事が本当に好きなので、頑なにこだわっておいてよかった。最近はあまり流行らない考え方かもしれませんが、一つのことにこだわり続けるのも時には大事なんじゃないかな、と思います。
少なくとも歳をとったとき、自分の選択は間違ってなかった、と思えるようなキャリアを歩みたいものですね。たとえその過程が過酷なものであったとしても。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?