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【広告本読書録:070】大人の迷子たち

岩崎俊一 著 廣済堂出版 刊

影響を受けたコピーライターは?と聞かれたら、キャッチコピーは眞木準さんで、ボディコピーは岩崎俊一さんと答えます。

眞木さんのキャッチは突き抜けているんですよね。底抜けに明るい。いわゆる定番のダジャレコピーではない作品に、その爽やかさがよく出ています。

帰ったら、白いシャツ。(全日空)

すばらしくステキな、イマジネーションを刺激する一行ではありませんか。

そして岩崎さんのボディ。これは、もう本当に『幸福を見つめるコピー』を買って読んでほしい。読んで写経してほしい。それぐらい、一言、ひと文字が美しくやさしい。その語り口がなんとも大人なんですね。

ぼくはいつも岩崎さんのボディコピーを読むとき、脳内で森本レオさんか久米明さん、芥川隆行さんにナレーションしてもらっています。

それぐらい、ボディコピーの達人である岩崎俊一さんが上梓した唯一のエッセイ集。それが『大人の迷子たち』です。

岩崎さんは自らのボディコピーを「手紙」と称するように、手紙の文章にある独特の温度、湿度を大事になさっていました。手紙というのは送り手、読み手のことを強く意識して書かれるもの。つまりそれが広告コピーにおける「ターゲット」である、ということです。

いきおい、岩崎さんの書くコピーはターゲット、つまり広告の受け手を想い、考え、慮り、痛いところは労り、かゆいところは掻き、笑いのツボを押さえ、深い納得とその広告主に対する共感を呼ぶ仕上がりになるのです。

コピーと長文は使う脳が違う

さて、コピーライターが現役で活躍しながらエッセイやコラム、小説といった広告文案以外の領域に手を伸ばすということは、少し前ではあまりありませんでした。

もちろんコピーライター出身の作家はたくさんいます。大御所では開高健さん、山口瞳さん。有名どころでは林真理子さん、原田宗典さん、奥田英朗さん。ほかにも元コピーライターの肩書を持つエッセイストやコラムニストは枚挙にいとまがありません。

しかしこと広告の最前線で広告づくりを主な生業としつつ、コピー以外の文章で一角の人物になるというケースはほぼ、なかったとおもいます。過去にはあの仲畑貴志さんもチャレンジしていたようですが、その後、さっぱり聞かないので…。

あ、俳句や川柳の世界にはよくいきますね。土屋耕一さんや、仲畑さんもそっちでは活躍なさっているようです。しかしエッセイ以上の長文となるとなかなか。

というのも、これは諸先輩方みんな言うのですが、広告コピーと小説やエッセイでは「使う脳が違う」らしいのです。曰く、小説は木に枝葉をつけて大きく茂らせていく作業。コピーは削って削って、伝えたいことをミニマムに磨き上げる作業。まるで正反対である、と。なるほど。

ではボディコピーの名手、岩崎俊一さんはいったいどこで、エッセイの道に目覚めたというか足を踏み入れることになったのでしょうか。

「ふつうの文章」を書くよろこび

長年広告コピーを書いてきた僕は、それほど意識はしなかったけれど、体内に相当の不平分子を抱えていたのかも知れない。

そんな書き出しではじまる『あとがき』には、岩崎さんがエッセイを書くことに気持ちが向かうきっかけが残されています。要約すると広告コピーはあくまで企業や商品の「言い分」を抽出し、自分なりの表現で世の中にぶつけるもの。そこには企業のチェックが入るので、どうしてもマイルドなものになってしまうといいます。

その作業が嫌いではない岩崎さんは、まるでパズルを楽しむかのようにコピーライターの仕事を続けてきました。しかし、前著『幸福を見つめるコピー』で20本ものエッセイを書いたことをきっかけに、「ふつうの文章」を書くよろこびに目覚めてしまったのだそうです。

それまでずっと長い間、企業や商品やサービスのいわば代弁者であった岩崎さんが、心の底から自分の書きたいテーマを書きたい文体で書けることのよろこびを知った。そのときの気持ちをこう表現しています。

変化球を投げ続けることに倦んだ投手が、ある日まっ向勝負のストレートを投げこむ爽快感に出会ったように。

そのときの岩崎さんのうれしさを想像するたびに、ぼくは映画『ガチ星』の主人公、濱島が踊りだしたシーンを思い出します。

岩崎さんは戦力外通告を受けたわけじゃないけど、でも自分で自分のセカンドキャリアがあるんだと気づいたとおもうんです。あ、ガチ星なんて誰も見てないとおもいますが、上の岡康道さんの映画評を読んでみてください。そして興味あればDVDなりNetflixなりで観てみてください。熱いぜ。

コピーじゃなくても岩崎節、健在

「ふつうの文章」を書くよろこびに目覚めた岩崎さんが毎月エッセイを書いていたのは東急電鉄の沿線フリーペーパー『SALUS』です。ザウルスじゃないです。サルースです。

ここでその名も『大人の迷子たち』というタイトルで連載されていた作品から47編、その他の雑誌から2編をそれぞれ加筆修正して一冊にまとめあげられたのがこの本です。

さきほど、コピーとコピー以外の文章は使う脳が違う、という話をしましたが、こと岩崎さんに限ってはそんなことはなさそうだな、というのが全編読んでみての感想です。

というのも、随所に“コピーライター岩崎俊一”の視点や切り口がみられるから。エッセイというステージでも岩崎節は健在なのです。

この世には、巡るものもあれば、行き過ぎて戻らぬものもある。巡るものは、四季であり大自然である。そして通り過ぎてあと戻りできないものは、この私たち人間の暮らしではないだろうか。
(第一話:家から、湯気が消えようとしている。)
孤独とは、寂しいものだ。しかしその寂しさとひきかえに、人は静かに考える時間や、自分を見つめる時間や、想像の翼を広げる時間を手にいれる。孤独を避けてはならぬ、と思うのである。
(第九話:孤独がくれた想像の翼。)
20代がつらい世の中は、ある意味健全なのかもしれない。問題があるとしたら、50代や60代がつらい世の中ではないか。ふとそんなことを考えるのである。
(第十一話:人は、20歳に戻りたいか。)
渦中にある時、人はその幸せに気づかない。だからいまその年頃の子どもを持つ家族に、何としてでも伝えておきたい。どうぞ思う存分笑ってください。今日という日を心ゆくまで味わってください。そしてそのかわいさを忘れぬよう、その姿を、どうか胸の奥深くに刻み込んでほしいと思う。
(第四十六話:この子の3歳は、たったの1年。)

なんでもない文章の締めのようにも読めますが、そこにはふだんの岩崎さんのコピーにも共通する視点や考え方が息づいていますよね。

Aという一般的な常識がある。しかし、その常識は本当に言葉通り受け止めるべきことなんだろうか。もしかするとこういう見方もあるのではないか。そうやってみればAということはBとなって、輝くのではないか。

そういう、岩崎さんならではの哲学がしっかりと投影されてます。

岩崎さんとぼくをつなぐ細い糸

エッセイほどその内容を分解して云々することが似合わないものもありません。内容解説や引用はこれぐらいにして、岩崎さんとぼくをつなぐ薄い糸、蜘蛛の糸のような話をしておわります。

この『大人の迷子たち』が掲載されたのは東急電鉄が発行するフリーペーパー『SALUS』である、とは先にも書きましたが、時をさかのぼること約25年前。ぼくは『東急沿線新聞』という東急沿線の駅で配布される無料紙にエッセイを連載していたのです。

なにぶんインターネッツなど夢物語の時代の話なので、まったく資料等残っていないのですが、おそらく『東急沿線新聞』がいろいろな形と名前と出版社を変えて、いまの『SALUS』に引き継がれているのではないかと。

ぼくが『東急沿線新聞』で担当していたのは「あらかると」というコーナーでした。新聞でいうところの「天声人語」みたいな位置づけの、最下段に配置された1600文字程度のコラムです。

ここでは人々の(とくに東急沿線をイメージ)日々の暮らし、季節の移ろいといった生活譚をベースに、最後は必ず東急ストアで販売している商材を絡めたオチで締めるという文章を書いていました。

ぼくはこの仕事を六本木のアウシュビッツと呼ばれたスパルタンプロダクションで最初に拝命し、毎回テーマ決めからプロット、本文作成まで鬼のようなダメ出しを重ね、かさぶたのようになった脳みそでひいひい言いながらこなしていました。

「早川、お前、高卒だろ?だからだよ、お前の書く文章にはな、文学性ってもんがカケラもないんだ。これっぽっちも文学性がない。お前みたいな低学歴のゴミムシがする仕事じゃねえんだよ、コピーライターってのはよ。こんなあらかるとみたいな簡単な仕事がなんで一人前にできねえんだよ」

すごいですね、人間の脳というのはあまりにも追い詰められると、追い詰めてくる人のセリフを結構一字一句漏らさず憶えているものなんですね。そう、この通りの恫喝を毎日毎晩受け止めながら、書いていたんです。

でも、そんな「あらかると」でしたが、非常に心が救われるような出来事もありました。その出来事については後日、毎週水曜日に更新している雑文記で書こうとおもいます。

いまにしておもえば「あらかると」でしごかれた経験がいまにすごく活きています。キャッチコピーにはからっきし自信のないぼくですが、ボディコピーは偶に上手く書けるときがあります。

そのスキルは、企画書を書く時や企業のインナーブランディングを展開するときにとても役に立っている。“広告をつくらないコピーライター”を名乗るぼくにはほんとうにちょうどいい、ポータブルなスキルといえるのです。

ぼくがボロ雑巾のようになって書いていた『東急沿線新聞』の「あらかると」。そのずっとずっと先に『SALUS』の「大人の迷子たち」がある。

なんというか、こう、勝手な思い入れですが、ぼくと岩崎さんをむすぶ蜘蛛の糸のような頼りない、しかし確実に一本そこにあるつながりは、ぼくにとって大切な寄る辺となっているのです。

■ ■ ■

ちなみに今回『広告本読書録』無事(?)70回を迎えることができました。もともとは長文の練習がてら始めた連載でしたが、気づけば習慣のようになっていました。それもすべて「いいね」やコメントをくださるみなさまのおかげです。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

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