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水曜日の会議

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毎週水曜日更新。ときどき水曜以外にも更新。どうしたら毎回こんなにくだらないことが書けるのだろうか、と書いている本人も呆れています。本当に申し訳ないです。
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#思い出

あだ名のない世界はどこまでも続け

つい先だって、こんな記事を目にした。 どうやら「あだ名」や「呼び捨て」を禁止する小学校が…

記憶をなくした記憶たち

いまから35年前。 金はないが時間と体力がありあまっていたころ。 そんなにしょっちゅうでは…

スキーロッジ、2泊3日、労働、21歳

みなさんスキーロッジで働いたことありますか? わたしはあります。 たった3日でしたが、あり…

1989年の大鳥前商栄会

くち(くち)づけの(づけの)あとは~♪ この文字列を目にした瞬間、本田美奈子さんの艶めか…

ドラゴン、というあだ名の男

高校時代の数少ない友人にオオタゴウという人間がいた。 彼のあだ名はドラゴンであった。 し…

ぼくの好きな先生

ぼくが通っていた高校は名古屋市のやや北寄りの東部に位置する私立大学の付属男子校でした。 …

RINJIN・怪人・スズキさん譚

18歳で名古屋から出てきて最初に住んだアパートは『第2ときわ荘』といいます。もちろん漫画家の聖地とは一切関係ありません。京浜東北線「東十条」駅徒歩10分。東十条商店街を抜けて環七を渡り国際興業バス営業所を超えたその先にある築36年の木造家屋でした。 一階は電機部品の組み立て工場になっていて、住まいは二階の三部屋のみ。アルミの玄関戸を左に引くといきなり階段で、蹴上を開けると下駄箱になっているという。わかるかな? 六畳の部屋には押入れと一口コンロがあり、流しと便所は共同です。

福しんとレンタルビデオと私

あなたは『福しん』をご存知でしょうか。知っている、という方は東京在住でなおかつ池袋寄りの…

わからないという魅力

名古屋の片田舎で青春を過ごしていたぼくにとって、最初のカルチャーショックはテレビの深夜放…

いしいちゃんのとんかつ

25歳から30歳まで働いていた居酒屋は、池袋西口一番街にありました。西口と北口の辺りは当時、…

耐え難くも甘いBUNBUN倶楽部

ぼくの名前が「博報堂の博」と「電通の通」で出来ているという話はあまりにも有名ですが、実は…

ラジオCMのアルバイトを一度断ったら二度と発注されなかった話

なんとなくのイメージとして、コピーライターとして会社に属していながら外部からの依頼を受け…

そのオフィス移転、私心なかりしか

ぼくが20代に六本木のアウシュビッツと呼ばれた事務所で毎日徹夜していたことはすでに有名な話…

追憶の六本木ランチ

ぼくの初任給は11万円でした。いまから32年前、1988年のことです。そしていろいろあって辞めるときには15万円になっていました。それが転職先の2社目では13万円に。そして3社目でまた11万円に戻ってしまいます。 ふつう、コピーライターの若手というのは転職を重ねてキャリアもスキルも、そしてお給料もアップしていくもの。どうしてぼくは右肩下がりなのでしょうか。いまならわかります。バカだから、です。目先の計算がまったくできないんです。 まあ、それはそれでいいとして(いいのか?)