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天、川、歌(11)

 第11話 清流

 寿里亜は今朝ここで瞑想したときに座ったあたりにまた腰を下ろした。禊殿の建物、山の木々のそよぐ音、月明かりに浮かび上がった辺りの気配を感じていた。じっと耳を澄まし、目をこらしていた。辺りの雰囲気に慣れてくると、月を見上げた。母の命日。今夜は十六夜。曇り空でくっきりとは見えないが、静かな優しい光を届けてくれていた。母の亡くなった時間帯は、夜8時から10時の頃である。その時間が、もうすぐ来ようとしている。母が亡くなってから2年。時が止まったかのように身動きできずにいた自分に区切りをつけ、新たに生まれ直す決意だった。自分は今、本来の自分でいられているだろうか。ありのままでいられているだろうか。
 母の突然の死を考えるとき、寿里亜はどうしても自分を責めてしまうのだった。たとえ自分があの日、大事を取って実家に駆けつけることができたとしても、その時は自分も母とともに命を失くすことになったであろう。自分の力の及ばないことながら、じくじくと己をいじめ苛んできた。
 加えてまた、寿里亜には、自分の思いが母の若すぎる死を招いたのではないかという怖れがあった。寿里亜は常日頃から、母にねちねちと愚痴を言うことがあった。母の望んだ公務員という職業を、自分が望んでいたわけでもないのにやらせれてきた、というものだった。 母は寿里亜が役所に内定したとき、ことのほか喜んだ。実際、それまでに見たこともないくらい喜んだのである。母は寿里亜が小学生のまだ幼いうちから、将来は公務員になるのよ、と言い続けてきた。だから寿里亜は小学校の卒業アルバムに、将来なりたい職業の欄に、公務員、と書いたのである。コウムイン、が何をする職業かも知らずに。後に寿里亜はそれが恥ずかしく、そのアルバムをどこかへ捨ててしまった。何年も経って、その小学校の同級生たちを、受験に来た地元の公務員試験の会場で見かけた。あのとき、野球選手や、お菓子屋さん、パン屋さんと書いた友達も、年を経て公務員試験を受けに来たのだろう。寿里亜はなんとなく会いたくなくて、気づかないふりをして声をかけなかった。大勢の受験者がいたにも関わらず、寿里亜は狭き門をくぐり抜けて合格してしまった。友達は誰ひとり受からなかった。母をはじめ、大学の教授や友達からは祝いの言葉をもらったが、寿里亜だけは淡々としていた。これで就職にまつわる面倒な活動が終わるということだけに安堵していた。
 本当は、社会、や世間、なんていうものに出て行きたくなかったのだと思う。年をとって、学校を終える年齢になれば、自分の食いぶちは自分で養わなくてはならない、まして自分は母子家庭なのだから安定したお給料をもらって、母を楽にしてあげなければ。今考えると、大学生になっても、自分がまだこどもこどもできていたのは、母が黙って学資や生活の工面をしてくれていたからに違いない。母は自分が大学に進めなかったためか、寿里亜には大学に進んで、安定した職業に就くことを強く望んだ。
 自分がもし、好きな道を探していたら、と考えることはよくあった。寿里亜はものづくりに興味があった。職人のような仕事に憧れた。また、自然の中に身を置いて農業のような生産をしたいとも思った。ほとんど空想のような想いもあれば、現実に資格を取ったものもある。母は決まってこう言った。「何の保証もない。食べていけない。60歳になって定年になったら、その後は何をしたって私は何も言いません。」毎月、期日になったら給料が振り込まれる今の生活には、経済的には不満はないのだからと自分をなだめていたのだが、もしかしたらこの母さえいなければ、という想いが、自分のなかに全くなかったと言えるだろうか。もしあったとしたら、その想いが、母の急死を招いたのではないか。その疑念が離れず、寿里亜をじわじわと苦しめていた。でも、自分を抑制していた母がこの世にいなくなってもなお、どうして私は公務員を続けているのだろうか。なぜ自分の望んだ方面に歩き出さないのだろうか。死んでもなお、私の足かせは外れないのだろうか。寿里亜は自問した。
 母のために、ここに祈りを捧げに来たのだけれど、母と自分の関係に思いを巡らせて、これで供養になったのかしら。今は母のためというより、神聖な気持ちで母の亡くなった時間帯を過ごしたい。それだけだった。今朝したように、目を閉じて、ただただ聴こえてくるものを聴いていた。それもそのうち忘れてしまった。どれくらい時間がたったことだろう。半ば眠っている状態から目を覚まして、しばらくの間座っていたが、やがて立ち上がってぶらぶらと歩き始めた。
 すぐ隣の、一段降りたところに、小さい小屋の建つ広場があった。突端は、川が見渡せる。端に沿って歩くと、河原に出られるようだ。足元に注意しながら降りていって、川の水の端まで行った。さらさらと流れる川音を聴きながら佇んでいた。川面に映る月が、ゆらゆらと揺れて、生きているかのようだった。ふと、足もと近くの砂に、お盆くらいの大きさの光の集まりができている。木漏れ日のように、ちらちらと揺れて美しい。月の光が雲の隙間からこぼれてできたもののように思えたが、すぐにそんなことはあり得ないと思った。次に、どこかからの反射だと思ったが、どこからきたものかわからなかった。不思議で、側に寄ってしゃがみ込んで、しげしげとのぞき込み、首を突っ込んで顔を光の当たってくる方向に向けた。
 そのとき、まばゆい光がぱあっと入り込んで来た。目が眩んで、眩しさに目を細めながらそっと開けると、真っ白い光の中に目を見張るほど美しいジュリーが浮かび上がっていた。月の光のスポットライトを浴びて、柔らかな笑みを浮かべながら歌っている。きらびやかで、妖艶で、その顔は、寿里亜の顔になったり、ちょっとクリムトの有名なユディト風だったり、髪の長い女性のようでもあり、楽器を手にしているようでもあった。美しい音楽に包まれているが、真空の筒の中に入っているかのように無音である。不思議なことだが、寿里亜はこの状態を特におかしいとも不思議とも感じなかった。ただただ展開していただけである。楽しげに軽やかに歌っていたジュリーは、今度は声の限りに熱唱し、ほんとうの人生をーと歌い上げている。

 第12話につづく

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