見出し画像

写真にいいねをくれた人に読んでもらいたかった #教養のエチュード賞

こんばんは、薄明です。

昨夜、嶋津亮太さんが企画された「#教養のエチュード賞」の結果発表がありました。150名を超える応募、そこから入賞・副賞含めいくつもの作品が選ばれました。

なぜ私がこれに応募したのかというと、タイトルにあるように「写真にいいねをくれた人に読んでもらいたかった」からです。自分と写真に関わる文章を。こう書くと、なんというかシンプルに自己愛の強い、ゴリ押し感のある人間のようですが、実際にそうなのかもと思います。いろんな細かな思いをワンフレーズにするとそうなってしまいました。

写真はSNSにアップすれば、多少なりとも他人の目に触れます。気に入ってくださった方や、交流のある方からいいねをいただけます。写真はビジュアルで、入り口がとてもひろく、一瞬です。それゆえに流れやすくもあるのですが、単純に見てもらうという入り口は、文章に比べると広いと思います(すべてがそうだとは申しません)。そう、文章を人に読んでもらうというのは、やはり難しいことです。書いた人自身のことを知りたい、その人の文章が読みたい、あるいはタイトルが気になった、というように、元々惹きつけるだけの理由が存在しているか、コピーや本文において筆力がひと目でわかる状態においては、すでに入り口の段階を突破しています。しかし普通そうではない。私のことに興味があまりない人に、読んでほしいとお願いしたところで気持ちよくは読めないでしょう。

けれど、写真にせよ文章(ことば)にせよ、私自身がなにかの単純な模倣でなく、シンプルに好きなものを発した結果に対し、いいね(Like、スキ等)をくれた人は少し歩み寄ってくださっているように思います。このエチュード賞の企画をされた嶋津さんをフォローして、すぐだったかしばらくしてだったかまでは覚えていないのですが、写真にいいねをしてくださったのと、この企画の話が出てきたことが自分の中でふっと繋がったのでした。そして「応募された作品はすべて読みます」とおっしゃっている言葉、これが決め手で、自分の中で「読んでもらいたい」という欲求が湧いたのでした。沸いたといってもいいくらいです。テーマはなんでもいい、なら、自分のもっとも好きなものの一つである写真に関することを書こうと。タイトルにあった「いいねをくれた人」というのが、今回嶋津さんでした。

そして昨夜、その結果が出たのでした。(予め申し上げると私は入賞していません)

そう、特定のテーマが与えられての賞ではないので、それぞれがそれぞれの思いを描き込めていて、入賞・入選以外の作品も読んでいると、嶋津さんのおっしゃる、前提として優劣は存在しないというのがよくわかります。たまたまこれは嶋津さんの個人的なプライズであって、いまの嶋津さんに響いたものが選ばれたというだけであって、これが例えば別の人であったら、あるいは別のタイミングであったら、私であったら…それぞれきっとなにか特別なものを受け取ったり、想起したものが選ばれていたのだろうと思います。

まだ全部を読んではいませんが、この一ヶ月ちらほらと流れてきたのを読んだり、昨日になって取り上げられていたものを読んだりしてみましたが、どれもそれぞれに違う人間の思いの発露だ、というのが大きな印象です。私のnoteもまた、その集まった150を超える数の思いのひとつでありました。

私が投稿したのは「写真の音」というものでした。


入賞とは別に――これは事前にアナウンスがあったのかどうかわかりませんが――印象に残った作品を20選、別noteにて紹介されるという記事が目に飛び込んできました。というか、noteのポップアップで「あなたの~が…」とか書いてあるものが出てきたのですが、急すぎてびっくりして読まずに閉じてしまい、焦りました。なんだった? 落ち着いて通知欄を見ると、

画像1

とあります。なんと、有り難く嬉しいことに、教養のエチュード賞20選のひとつに選んでいただきました。びっくりですが、全投稿者の中で一番に応募したという印象があったのかもしれません。なのでこのnoteでも1番目にご紹介頂いていました。内容についても、さらっと読んだだけではわかりづらくくどくどしい私の写真に関する考えを深く読み解いたうえで選評を書いていただいているのが、伝わってきました。

読む人も選ぶ人も嶋津さんひとり、つまり必ず読んでもらえるということで、その日の勢いで投稿したnoteでした。そのあとすぐにTwitterで紹介いただいたときのコメントもありましたが、さらに20選に入れていただいたときの紹介文は一新されていて、あれだけ数多くの投稿すべてとひとつひとつ真摯に向き合ってくださっているお姿に胸を打たれました。形式張った表現になりましたが、胸の奥にソクとした俊敏な鼓撃を感じたという感覚です。

写真家の薄明さんによる記念すべき最初の応募作品です。
写真から感じる「音」について。ヴィジュアルが奏でるメロディやアンビエント。鑑賞において、自分の中に湧き起こるもの。つまり、つくり手のクリエーションと受け手のクリエーションが交わった時に、身体的な感覚へと結びつけることができるか。美しい写真と呼応するような論理的な言葉に惹きつけられます。表現のヒントが散りばめられた珠玉の作品です。

私の言葉が論理的かどうかはさておき、私と写真との間に生まれることばでもって掘り下げる思考に、少しでも感じてくださったことに喜びを感じずにいられません。

ここで話を冒頭に戻します。何故参加したのか、それは読んでもらいたかったから…では、何故読んでもらいたかったのか。

私は出来る限り(意識的に、あるいは無意識に)純粋に自分の感覚に対して素直に、気持ちいいということを大事にしています。こと表現の領域においてはです。写真を撮ることや詩を書くこと(ときとして、あるいは大抵の場合、ことばは気持ちのいいことだけではありませんが)。その素直な気持ちよさの発露である結果に対して共感してくれたひとに、より自分の心の内を知ってもらいたい。そして、それに対する反応を、出来ることなら観察したい。そして共感したというなら、その心の動きや、その人自身についてもっともっと知りたくなります。何が好きなのか、どんなものを作るのか、どんなことに悩み苦しみ、どんな感覚が気持ちいいのか。

読んでもらいたいというのは、そういった私の観察と記録の欲求の一部です。(さらに言えば、私の心の動きの中でそれらはまた一部分です)

書くまでもなく、当たり前のことですが、それは単純に自分の好きに反応する人と話がしたいということでした。何かとくどくどしい話であったり、うまく表現できないことだらけで、非常にことばに不自由な人間と思われがちですが、それでも言葉を通じて、あるいは写真を通じて、何かを通じて知り合いたいという欲求があったのでした。

投稿そのものが相手に宛てた言葉であったならば、選評はお返事でした。あらためて、選評において言葉を頂いたことが、本当になにより嬉しい。これで十分に過ぎます。

同じように、これはエチュード賞とは別ですが、私の写真にコメントを添えていいねを下さる方がいらっしゃったりして、同様に嬉しいことです。中にはリアル文通や、直接お会いしたときにもこういうところが好きで…とお話いただけることがあります。

今日も私の写真を「毎日飲みたいお味噌汁のようなお写真」と表現してくださった方がいらっしゃいました。それを私は自分のこととは思いもせずに、「わかりますわかります!毎日みても飽きないというか、インパクトは強くないのですがなんとなくその描かれた空間が気持ちいい写真、好きです!」とか食いついてちょっと恥ずかしかったです。

自分の好きなものが、自分の一面に反映されている。なにかしら他の方のなかで色や形になった自分自身を見つけると、とてもうれしくなるのです。きっと、他人を通した自分を見たいのです、わたしは。私の写真から、心地よい静けさを受け止めてくれる人と、穏やかに写真の話がしてみたいです。まずは写真にそれを込められるようにならないといけませんが。

この記事が参加している募集