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幼時の記憶

海の見える家で育った。家のすぐそばに河口があり、玄関を一歩出ると目の前に海が広がっていた。近くの港には、1日に1度客船が着く。幼い私の生活には、汽笛と潮の匂いが共にあった。

それらは、開け放たれた窓を通って、家の中にも海の気配を運んでくる。緑とも青ともつかない色の海、深い黒がうねるあの海が、いつも私の隣に横たわっていた。

食事をしている時も、絵本を読んでいる時も、ピアノを弾いている時も、海は眠たげな眼でこちらを見ている。そして眠りにつく時、波が渦を巻いて私を飲み込む。暗い部屋の天井を眺めながら、ああ、海の底に沈んでしまったのだなとぼんやり考えていた。海の色と夜の色は似ている。どちらも魂が還っていく場所だからだろうか。

当時は、祖母が一人っ子である私の遊び相手をしていた。大抵は一緒にままごとをしたり人形遊びをしたりするのだが、時々家の近くの砂浜に連れて行ってくれた。

砂浜に行くといつも同い年くらいの男の子がいた。二人で追いかけっこをしていた記憶がある。夏の終わりには、浜辺に打ち上げられた海月をつついて遊んだ。彼の影が、夕方の砂浜に長く伸びていた。

ここまでが私の幼時の記憶だ。あの頃を思い返して、ふと気付いたことがある。家の近所には、年の近い子どもは住んでいなかった。だから祖母がいつも遊び相手をしていたのだ。

砂浜で一緒にいた彼、彼は誰なのだろう。どこから来たのだろう。そういえば、私は彼の顔さえ思い出せないのだ。祖母は彼のことを知っているだろうか。祖母が亡くなった今では確かめようもない。

東京に越して来てから、地元との縁も一層薄くなり、もしかするともう一生あの場所を訪れることは無いのではないかと思う。海のそばの大きな家も、砂浜も、少年も、最早私の中にしか存在しない。時の流れは、記憶を現実とかけ離れたまぼろしへと変質させた。

乖離が大きくなればなるほど、夢に沈む時間が長くなる。私は過去に向かって夢を見ている。夢の底はとても暗く、遠い。これは海だ。何もかも捨ててきたつもりだったのに、あの日と同じ海が、ずっとそこにある。

戻れないことはとうの昔に運命付けられていた。黒い波の中から私は出られない。東京の無機質な風に一筋、潮の匂いが香った。

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東京の魔女 白磁の兎
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