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目は口ほどにものを食べ

ドラえもんのひみつ道具に、食品視覚化ガスというものがある。
このガスは、食べ物の絵や写真やテレビの映像に吹き付けると、それを見ているだけで食事をすることができるというもので、この道具が出てくる話のタイトルが『目は口ほどにものを食べ』だった。

子どもの頃にこの話のタイトルを見たとき、変なの、と思った。

今見るといいタイトルだなと思う。けど当時は、目がご飯を食べるなんて、変なの、と違和感を感じたことを覚えている。

そんな違和感のことは忘れてだいぶ大きくなってから、恵比寿の写真美術館に当時付き合っていた人と一緒に展示を見に行った。その帰り、相手が焼肉を食べたいと言ったので焼き肉屋に寄った。

焼肉屋は写真美術館と同じ恵比寿ガーデンプレイスの38階にあった。店に入ると、並んで窓の方を向いて座るカップルシートみたいな席に案内された。

真夏の昼下がりの晴れの日、ランチセットとビールを二つずつ頼んだ。それらが来るまでと、来てから肉を焼いたり食べたりしている間、ずっと目の前に広がる景色を眺めていた。

私は高い場所から遠くを見ることが好きなので、その時も景色を夢中で見ていた気がする。すると途中から、目の感じが変になってきた。

この変な感じは、遠くにピントを合わせすぎて戻らなくなったとか、はっきりした身体的なものじゃない。一番近い表現としては、目が景色を食べてる、だった。食べるというか吸い込んでるというか、とにかくそうでないと説明できないような。ただ見ているだけの時とは違い、感覚に重みがあった。その時飲んでたビールのせいかもしれないけど。

そこで『目は口ほどにものを食べ』の話を思い出した。ブラウン管の中のラーメンをお腹いっぱい食べるのび太の目、どんな感覚だったんだろう。未来の道具だから、そんな微妙な感覚は調整済みで、満腹感だけを得られる良品なのだろうか。

のび太以外にも目に何かを吸い込むといえば、阿部公房の『壁』に砂漠など色んなものを目の中に吸い込めてしまう主人公が出てくる。この時の吸い込む身体感覚も、どんなものだったんだろう。どっちの本も感覚については書かれてなかった気がするけど、手元にもないし確かめようがない。

ただフィクションの世界でなくても、共感覚といって音から色や映像が見える人もいるし、目が食事する感覚を持ってる人がいるかもしれない。とか思うけど、うまく人に説明できない。焼肉を食べてるときにこの話をしたら、適当に流されて終わった気がするし、そのタイミング以外では話題に出したことがない。

私たちは言葉を信じすぎている。日本語では的確に表現できない状態を表す単語が、他の言語にはあったりするように、私たちを取り囲む世界は、自分の知っている言葉のピースだけで表現できるものではない。これまでの全ての時代や地域の言葉を集めても、掬い取れなかったものはきっとあるだろう。

でもそれでも、もしかしたら私の知らない言語や専門用語には『目は口ほどにものを食べ』に似たような言葉があるのかもしれない。

最近、コロナのせいで外出時にマスクをするのが当たり前になった。マスクで鼻と口を覆い、ひどい時にはイヤホンで耳まで塞いでいる。そのため情報を目からしか得られず、外出時の目の仕事量が増えた。

夜でも昼でも、人のいない時間を見計らってひっそりと散歩に出ると、暗やみで瞳孔が開くように、目の力が研ぎ澄まされていくような感覚がある。でもあの焼肉屋の時みたいな力はない。私は今でもあの感覚を待っている。

とか思ってたら、非常事態宣言が解除されてしまった。外界で清々しくマスクを取り去る日も待ち遠しいし、それと同じくらい、また街を食べてみたい。

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