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人間の条件とヒトを超えていく人間

 アーレント『人間の条件』において、活動とその継承のための制作は、異なる能力に、おそらくは別々の主体により、その多数性によって人間性は支えられる。ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』で主に論じられるのは、種としてのヒトを超え続ける未規定な人間である。それは、道徳的創造者、神秘思想家の存在に支えられる。『源泉』における調教と神秘性のあいだには知性が位置づけられる。『条件』はこのあいだに位置づけられるだろう。ここでは、法(=道徳規範)は活動と制作という知性によるからである。  活

    • 皺皺祝い

      島、日は仕舞い、 暇。詩が卑猥 「浮気はしない」 産着に姉妹 双子が見合 「船出は見ない」 日が島、見舞い、 皺は詩、祝い

      • ゲームを続けよう 人として一生だけ生きるというゲーム

        べったり登場人物に感情移入するような読み方はどんなふうに言われているのだろうか。あるときを境に、あらゆる形式の作品はゲームになったとするなら、その時代においては、べったり登場人物になりきって演じるように読むことだけが読むことである。作品を外から視点で眺めても、何もわからない。それはゲーム作品に対してゲーム実況で済ませる態度である(本当はゲーム実況を見ることもひとつのゲームなのだが)。意図や達成は演じてはじめてわかるはずで、それは時代状況によらずに作品とは元からそういうものであ

        • 悩み解消のスターターキット

          1. 感情を手放す。知覚に集中する。身体感覚に集中することは、感情が暴走しているときには難易度が高い。近くのものを見て色や形を心の中で言う。 2. 囚われている悩みが自分の人生にとって重要ではないことを確認する。そしておそらく今から愚痴ろうとしている他人にとっても重要ではない。他のことを考える。 3. つまり、「今日はそういうことにしといてやろう。明日はヤってやるかんな」と言って、悩みを投げ出すこと。遊べ、飲め、食え、寝ろ! 4. それでも囚われ続けるなら、きちんと時間をとっ

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          カラスになりたいペンギン

          カラスになりたいペンギンは、人間である。ただのペンギンは、自己像を誤認することはないし、目標を見誤ることはないし、夢を抱くこともない。

          カラスになりたいペンギン

          運動不足の人が筋トレをはじめて最初に出る効果

          結論を先に言うと、その効果は謎が解けることです。 長時間のデスクワークなど、運動不足になると体を痛めます。痛いだけでなく、痛めるのです。ですが、運動不足なので、身体感覚が希薄になるので、同僚や家族に(たぶん、嫌がられてますが、)「なんか知らんけど、ここが痛いんだよね」などと毎日言うことになります(こいつ、毎日同じこと言ってんなあ、キモイなあと思われています)。あなたは謎の痛みにとらわれます。 そういうときは、運動するぞとか決心したり、ジムに入会したり、ランニンググッズをた

          運動不足の人が筋トレをはじめて最初に出る効果

          植え替え

           スマホを見ている人々が並ぶ電車内の風景は何かに似ていると思っていた。こないだ、動物園に併設されていたのでついでに見た、植物園を歩いていて、電車内を歩いているような気分になった。スマホに夢中になることはなんだか動物化というより植物化だ。吸気と排気があって、根をはる。たしかに土からちゅうちゅう栄養吸収しているみたいに、スマホに夢中になっている人は見える。  アルコール依存症の治療入院してたときに入院患者五人で断酒会に行ったときにそのなかにいる65歳のひとが優先席に座らないでいる

          植え替え

          小説「瓦礫の山の家」

           疲れて眠る乗客の胸ポケットに一輪の花を挿して回る男がいた。不審に思った乗客が次の停車駅で駅員に注意するよう呼びかけた。駅員が話しかけたところ、男は逃げ出した。車中を追跡し、車輌を一両越えたところで追いついた駅員が飛びかかった瞬間、あたり一面中に新緑の葉っぱがばら撒かれ、中から一匹の狸が飛び出してきた。突然のことに腰を抜かした駅員の隙をついて逃げたものの、狸は乗客の手によって抱き上げられた。乗客、駅員に怪我はなく無事であった。  狸の供述によると、「人類を滅ぼしたかった。息を

          小説「瓦礫の山の家」

          早く死にたい

           通勤電車に乗っている時間は、行くときが短くて、帰るときが長い。しかし、これでは、楽しい時間はあっという間で退屈な時間はなかなか進んでくれないのだから、「今日もまた」と憂鬱な行きの通勤電車に乗っている時間が楽しく、「やっと」と晴れやかな帰りの通勤電車に乗っている時間が、辛くて仕方がないということになってしまう。確かに試験の日や歯医者の日はすぐに来るのに、クリスマスやお正月はなかなか来ない。楽しい時間はやっと来て、あっという間に過ぎ去っていく。  いまは仕方なしに生きていて、な

          早く死にたい