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読書日記 ヴァン・デル・ポスト著『影の獄にて』 生き恥を晒して生きる未来と平和

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 『影の獄にて』 思索社


『影の獄にて』は、映画『戦場のメリークリスマス』の原作小説だ。映画を観て、原作はどうなっているのか気になって、読んでみた。実はその昔、買ったことがある。本は、実家の本棚にあると思うが、中身は何も記憶していない。

今回、図書館から借りてきたのは、ソフトカバーで、タイトルも『戦場のメリークリスマス』。表紙には映画の中の坂本龍一の姿が使われていて、巻頭、二十数ページにわたって、映画のシーンのモノクロ写真が掲載された、本そのものが映画『戦メリ』仕様になっていた。

私が持っていたのは、ハードカバーで、映画の写真など一枚もない地味なつくりだった。タイトルも『影の獄』だった。確か映画化に合わせて、新装ヴァージョンのこの本が出たような記憶がある。


読んでみたら、初めて読む感じだった。何も覚えていなかったし、何も思い出さなかったから、きっと買っただけで読んでいないのだと思う。本文を読んでなくても、大抵、あとがきくらいは読んでいるものだが、あとがきを読んでも何も覚えていなかったから、まるまる読んでいないのだと思う……多分。

その昔、ヴァン・デル・ポスト選集というものが出ていて、3冊くらい買って持っているけれど、きっとそっちも買っただけで読んでいないのだと思う。しかし、ローレンス・ヴァン・デル・ポストって、なんかややこしい名前だ。

意外にも南アフリカ人だった、しかも親日の著者


著者のことを、今まで私は、イギリス人だと思っていたら、翻訳者のあとがきによると南アフリカ人だった。アフリカ大陸で生まれ育って、しかも、来日経験があると書いあった。

そのいきさつも変わっている。たまたま南アフリカにやってきた日本の船があって、その日本人の船長と意気投合して、その船に乗り込んで、日本にやって来て、二か月ほど滞在したのだという。

来日したのが1926年。ヴァン・デル・ポストは1906年の生まれとなっているから、若干20歳の時だ。来日する前のヴァン・デル・ポストは、すでに南アフリカの新聞の記者をやっている。南アフリカに帰国した後は、親日的な記事を書きまくったとある。

早熟な文筆家なのだろうが、新聞記者というよりは冒険家のような人に思える。

第二次世界大戦が始まったら、英国陸軍に入隊している。イギリスと南アフリカは、本家と分家みたいな関係なんだろう。

最初はアフリカでナチスを相手に戦い、その後はオランダ領東インド(インドネシア)に転戦し、日本軍相手にゲリラ戦をしかけている。しかし、失敗して捕まって、1943から終戦の1945年まで捕虜生活を送っている。その時の経験をもとに、本書が書かれたようだ。

終戦後は、軍務に復帰し、ジャカルタの英国公使館に軍人として勤め、その後、南アフリカに戻って農場を経営したり、ヴァージニア・ウルフ夫妻の援助を得て小説を出版したりと、作家業もやっている。また、南アフリカ政府のアパルトヘイト政策への反対運動をしたりしている。

その後、英国に移住しているが、南アフリカで紛争があるたびに、調停役として呼ばれているのだそうだ。本を出版したのは、英国移住後かもしれない。

著書は、小説から紀行文学、ノンフィクションまで幅広くあり、また本人が出演するドキュメンタリーのシリーズもあって、英国では人気のある人だったらしい。

ウィキペディアを見たら、「少なからぬ作品を有する20世紀のアフリカーナー著作家であり、農耕者にして、戦争の英雄、イギリス政府首脳陣の政治顧問、チャールズ王太子の側近中の側近、王太子の息子ウィリアム王子の代父、教育家、ジャーナリスト、人道主義者、哲人、探検家、自然保護論者である。」と書いてあった。これが全部、本当だったら、結構な大物だ。ちょっとびっくりした。

意外にも映画は原作に忠実だった


1996年に亡くなっているから、『戦メリ』の映画の時には、まだ70代で元気だったと思われる。しかし、当時の記憶をさぐっても、ヴァン・デル・ポストがこの映画に関して何か言ったことはなかったように思う。

とにかく、そういう経歴の人なので、日本語も、ある程度、話せたらしいし、日本文化に対する関心も強く、ある程度の理解もあった人らしい。

結論を書くと、映画の『戦メリ』に出てきた、日本的なものは、みんな原作小説に書いてあることだった。ヨノイという聞きなれない日本人名も原作通りだし、ハラキリとか、日本刀へ執着する日本兵とか、武士道とか、潔く死を選ぶとか、捕虜に飲食を禁じて「行」を強要するエピソードも、ほぼ全部が原作通りだった。

ハラ軍曹(ビートたけし)の「メリー・クリスマス ミスター・ローレンス」と呼びかけるシーンも、セリエ(デヴィッド・ボウイ 映画ではセリアーズ)がヨノイ大尉(坂本龍一)をハグして両頬に接吻するシーンも、原作に書いてあった。

映画が外国向けに強調したのだろうと、私が思ったことは、ことごとく原作に書いてあり、映画がデフォルメしているわけではなかった。そのことが意外だし、面白く感じた。

映画と小説の違い


小説は、3部構成になっており、1部と2部は、語り手の私がいて、ローレンスと2人で、捕虜だった時代を振り返る形式で進んでいく。3部は、私とローレンスと、私の妻との3人で、あの頃を振り返っている。

私とローレンスとセリエは、3人とも南アフリカ人だが、英国の陸軍に志願して軍人になっている。それぞれが顔見知りで、3人とも日本軍の同じ収容所で捕虜になっている。しかし、3人の収容時期は微妙にずれていて、3人が揃って捕虜収容所にいた時期はない、という設定で物語は進行している。

第一部が、ローレンスとハラ軍曹のエピソード。
第二部が、セリエとヨノイ大尉のエピソード。セリエと弟のエピソード。
第三部が、ローレンスと女性とのエピソード。

映画と小説との違いは、小説には語り手の「私」がいることと、映画では南アフリカを省略して、ローレンスとセリエの国籍を英国人にしているところだ。また、小説の第三部にあたるエピソードは、撮影をしたのそうだが全面カットしてあって、映画ではローレンスのセリフで回想されるにとどまっている。また、映画のような同性愛的な要素は、小説にはほとんどなかった。

デヴィッド・ボウイが演じたセリエという役は、小説では美青年の中の美青年で、映画スターのような美男子だ。同様にヨノイ大尉も日本人には珍しい長身の美男子として描かれている。

しかし、ヨノイの美男子ぶりは、例えば若い頃の高倉健を美丈夫と評するのと変わりがないし、セリエの美男子ぶりは、当時の日本人が、それまで見たことのないもの、珍しいものを見て、目が離せなくなる、といった種類の描き方だ。

「コトバが通じない相手には、容姿がものをいう。日本人は生まれながらに、美というもにの敏感だ。セリエほどの美男子は、その日本人の想像力をかきたてずにはおられないだろう」なんてことが書かれてあったことからも、珍しいもの扱いな印象を受ける。

ヨノイがセリエに接吻されて昏倒するシーンも、映画のようにセクシャルな感じで悶絶するのではなく、小説では、何事にも泰然自若と受け止めなければならない日本男児が、はからずも虚を突かれてうろたえてしまった、といった感じで描かれている。

だから、部下や捕虜の見守る中、つまり人前で恥をかかされたことの方を、ヨノイ本人も他の日本兵も問題視していて、そのため、その後、ヨノイは降格され、人前に、一切、出てこなくなる。腹を切ったのだと噂されていた。

そんな感じで、同性愛的というよりも、体面を重視する日本人のメンタリティの問題として扱っている。

個人と集団と戦争と。欧米と日本との違い



今回読んでみて、意外と面白く読めたことに驚いた。正直、全然期待しないで読みだしたのだ。特に、1部と2部は、かなり面白かった。文学作品だから、詩的だったり哲学的だったりして、文章が冗長な面もあるが、著者の日本人体験をもとにした日本人論小説とも言うべき作品だった。

ただ、誰が読むのか? といったら、日本人くらいしか読みたがる人はいないのではないか、と思った。海外でのこの小説の評価はどうなっているのか、気になってググってみたけれど、日本語で検索する範囲では何も出てこなかった。


著者は、日本人は、個人的になることを拒否して、まるで昆虫社会に生きているようだ、と書いている。女王バチが天皇で、働きバチが国民だ。個人よりも集団が上にあって、そのてっぺんに天皇がいるという、日本人社会の構造が、蜂や蟻といった昆虫の社会のように見えるらしい。

今の日本は、てっぺんにいる天皇の威厳はかなりなくなっているけれど、個人的な意見やことの良し悪しよりも、その場の集団の意向や雰囲気が優先されるのは、戦前の軍隊とほとんど変わっていない。最近は同調圧力というコトバで危惧されていても、一人一人の意識はそのまんまだし、一向に世の中は変わっていない。

この小説に描かれた80年も前の日本軍と、今の日本人とがあまり変わっていないことに、驚くような、残念なような、そんなもんだろうな、という、複雑な気持ちになった。

この小説では、個人の確立していない戦前の日本の軍人と、戦争や全体主義との相性の良さが指摘され、しかし、戦争裁判では個人の罪として問われることの相反する状態が描かれている。

では、個人が確立されたヨーロッパ人(小説では南アフリカの白人)ならどうかといったら、個人的な動機から戦争に飛び込んでいき、戦闘に没頭し、最後は捕虜収容所で命を落としたセリエを描くことで、個人は個人で脆いもので、戦争のような大きな流れからは脱しえなかったという、こちらも相反する状態で表現している。どっちもどっちな感じに読めるのだ。

セリエは、他の捕虜の命を救うために犠牲になって命を失うのだが、それはある種の自殺のようでもあり、合理的な判断の結果のようでもあり、同時に日本人の潔く死を選ぶ死生観を体現しているようにも読めるから、ややこしい。

そんなだから、この小説を読むと、いろんなことを考えさせられた。まず、日本人とヨーロッパ人との違いだ。個人が確立した人たち同志が一緒に何かする時には、ルールが必要になる。ルールを作って、それにのっとって、共同作業を行う。だから彼らはルールを大事にする。そのルールは自分たちで作るし、現実が変化すればそれに合わせてルールを修正もする。きっとそれは、共同作業が戦争でも、同じだ。

一方、我々日本人は、ルールはあってもそれは建前だったりする。ルールよりもなにか別の、大勢の雰囲気で動くことの方が多く、もしかしたらそれが自然だったりする。その一方で、ルールを欲しがる。例えば、最近でも、コロナでマスクをどうするかなんてことは自分では判断しない。政府にルールを決めてもらいたがる。そうやって決まったルールには盲目的に従う。ルールは現実に対応していなくてもよいのだし、自分たちで修正もしない。

いまだにそういう感じでやってきているから、どんどん、どん詰まってきた気がする。なんでどん詰まってきているからといったら、日本人の人数が少ないうちはそれでも機能していたと思うが、人数が増えて所帯が大きくなると、無駄も大きくなるからなのだと思う。

同時に、他の国の他の考え方をする人たちと無関係には、存在できなくなっている昨今は、世界から見たら日本人が少数派で、日本人のように考えて行動する人間が少ないからなのだと思う。

ではヨーロッパ式に、ルールをきっちり決めてやった方がいいのかといったら、多分、そうした方が、考え方も感じ方も違う人間が、共存していくには、いろんな面での無駄が少なくていいのではないかと思う。でも、日本の現実はそんな風にはなっていない。

なんだかわけのわからない結論になったが結論は出ていない


日本語には「生き恥をさらす」というコトバがある。登場人物のハラもヨノイも、日本人は生き恥をさらすくらいなら、潔く死を選ぶ、というメンタルの持ち主だ。が、著者はまったくそのようには考えず、生きることは正しくて、生き延びることを選ぶことは恥ずかしことでもなんでもない、と考えている。そういう著者が、生き恥メンタルの日本人を見つめて書いた本が、『影の獄にて』だ。

現在の日本は、表面上は、著者の考えに近いような装いをしているが、中身はまだまだ生き恥メンタルを持ったままだと思う。

この小説は、結局、どんなに文化的な水準が高くても、戦争からは逃れられないと言っているようにも思える。ロシアが、ウクライナに戦争を仕掛けて、もうじき1年になる。ウクライナに限らず、世界の至るところで、戦争は展開していて、ここにきて急に日本も、あたかも戦前のような状況を呈してきたように感じる。脳のない私には、戦争反対を唱えるしか、頭に何も浮かんでいないが、そんなことを言っていられない状況がすぐに到来しそうだ。

と、こんなふうに、柄でもなく頭を使うと、収拾がつかなくなる。何が書きたかったのか、すでにわからなくなっている。なんとなく「サムライ」とか「武士道」とか、そのあたりの考え方に、どれくらい今の私たちが縛られているのか、考えてみる必要がある、という気がしてきた。ややこしいなあ。



ところで、先日、私が書いた『戦場のメリークリスマス』の映画感想文は、昨今のLGBT的な観点からすると、差別的な意識がはっきり出ていると思うのだが、大島渚の映画は、LGBT的な観点からすると、どう見えるのだろうか?
遺作になった『御法度』は、あの当時の私でも時代に逆行するような印象を持ったのだったが……。

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