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不便から始まった「人との交じり合い」

僕は老人ホームに勤めている。

地域交流を目的とした体操教室を施設で週に一度開催している。
僕はその担当でもあります。

地域のおばちゃん達が毎回、10名程度集まります。
体操をみんなで30分した後、30分みんなでお話をするというもの。

体操は、、、
集まるきっかけに過ぎない。
みんなの本当の目的は“おしゃべり”だと思う。

いつも笑顔で大きな声で楽しくお話されている。
こっちが元気をもらえる。

みんな、いわゆる高齢者だが、微塵も感じさせない。
体操が終わると、

「〇〇へご飯食べにいこーやー!」
「〇〇へ遊びにいこーやー!」

女子高生かと思うほどだ。
女子高生と何が違うのか?

そう。超アナログということだ。

っあ。年齢も違うけど・・・

そんな、アナログなやりとりを聞いていて学びもあるものだ。

地図もない、カーナビも使わないなか、あるお店の紹介をしていた。
毎週、体操教室に来ては、
「辿り着けなかった」という声を聞いていた。
それでも、イライラしている様子もない。

そして、今週遂に辿り着けたみたいだ。

お店付近に辿り着いてもどこかは分からず、その周辺で、「どこですか?」と近所の人に聞いたみたい。そうすると、声をかけたその人が、店主だったようだ。

僕たちは、目的地へ行くときは、事前に調べ、カーナビで設定して、最短で目的地へ行ってしまう。

それが、悪いとは言わない。

でも、あらゆるものがテクノロジーの進歩よって便利になってきている。
便利になると工夫も少なくなるし、人との関わりも減ってしまう。

おばあちゃん達とのやりとりを見ていると、不便だからこそ、助け合い、やりとりが増える。

人生を楽しんでいるように思う。

僕たちは、つい目的に向かって一本道をイメージしていまう。最適化をどうしてもしてしまう。

こんな時代だからこそ、良い意味で周りに振り回され、その時々で起こることを楽しんでみるのも良いのかもしれない。

不便という言葉は悪いことばかりではなさそうだ。

おばあちゃん達をみていると、そう思う。


2019.6.7


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