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2001.9.11. ビエンチャンにいた私が経験したこと。

9.11同時多発テロから20年ということで、いろんなメディアで、関連番組やトピックを目にしたので、その時のことを思い出してみました。

ラオス時間2011年9月11日の夜


当時、私は、在ラオス日本大使館に勤めていました。
2011年4月から勤めていたので、ちょうど半年経った頃。

確か、アメリカ時間では午前中で、日本時間だと夜の9時半から10時くらいで、ラオス時間だと、夜の7時半から8時くらい。
当時、私は大使館の近くのゲストハウスに住んでいて、どこか外で夕飯を食べて、ゲストハウスに戻って来たら、自分の部屋に入る手前のゲストハウスのスタッフ用のテレビの前でスタッフ何人かがテレビを見ていて。
いつものように、「ご飯食べて来たの?」みたいな会話からの、テレビを見ながらの「アメリカのビルに飛行機が突っ込んだんやって」みたいな話をして、「あら、大変」とは思ったけど、その時は、そんなに深く考えることもなく、自分の部屋に。

自分の部屋にもテレビはあったけど、ほとんどつけることはなかったし、パソコンも持ってたけど、モデムで電話線に繋いでダイヤル通信でインターネットに接続する、みたいな感じだったから、部屋ではメールを送受信するくらいしか使わないし。
携帯も、もちろんスマホなんてなくて、ガラケーだから、タイムリーにニュース速報を目にするような環境ではなく。

そしたら、珍しく、母親から国際電話がかかってきて。
(珍しく、というか、後にも先にも、母親がわざわざ国際電話をかけてきたのは、この時だけだったと思う。)

で、「ワールドトレードセンターとかいうところに飛行機が突っ込んで、大変みたいやけど、ラオスは大丈夫なん?」みたいなことを言っていて。
どうやら、タイの"ワールドトレードセンター"(大型ショッピングセンター)のことだと勘違いしていたらしく、「ラオスはタイの近くやから、大丈夫なん?」と思って、咄嗟に電話をしてきたらしい。
(現在は、"Central World セントラルワールド"と言われていますが、当時は"World Trade Center ワールドトレードセンター"と呼ばれていました。伊勢丹が入ってたりする、バンコクでは日本人にとって最も身近なショッピングセンターの1つ)

とりあえず、「それタイじゃなくて、アメリカらしいから、ラオスは全然関係ないし、大丈夫。もし、タイやったら、もっと大騒ぎになってるやろうけど。」みたいな会話をして。

日本のニュース速報でも、"ニューヨーク"とかって言ってただろうと思うけど、母親としては、"娘がラオスにいる"ってことで、真っ先にタイのことを連想してしまったんだろうと思われる。

ラオス時間2011年9月12日の大使館


次の日の朝、普段通り出勤したら、なんとなく、いつもよりザワザワしてる雰囲気だなあ、と思いながらも、自分のデスクがある経済協力班の部屋へ。
いつもなら、ついていないテレビがついていて、同時多発テロの映像が流れていました。
その時に改めて見た、飛行機がビルに突っ込んでいる、テレビの映像、というか、それを大使館の部屋で見ていた風景は、未だに覚えている。

前日の夜、チラッとテレビを見ただけで、テロだとかいう情報もまだ詳しく聞いてなかったから、そんなに深く考えてなかったけど、しっかり映像を見て、ニュースを見たら、これは結構大変なことになってるなあと、思って。

私は、現地採用扱いの職員で、当時は現地採用は私1人だけで、私以外の日本人職員は、外務省の職員か、もしくは日本で採用された契約の職員という環境。
外務省の職員の方々は、明らかに落ち着かない感じというか、"これは大変だ"っていう危機感が漂っていたのを、よく覚えている。

その中でも、皆さんが「アメリカは絶対に戦争を始める」って言うのを聞いて、なんだか、現実のことじゃないみたいな。
私的には、大変とは思っていても、そこまでとは思っていなくて、このニュースを見た瞬間に"アメリカは戦争するな"って思うんだなあ、って。
外務省で働く、って、そういうことなんだなあ、と。
まだ、半分学生みたいな感じだった当時の私にとっては、その反応や雰囲気にも驚いた記憶があります。

私の周囲のラオス人の反応


もう1つ、とても印象に残っていることがあって、それは、ラオス人の反応。

もちろん、ラオスでも大きなニュースになっていて、私の周囲のラオス人の友達とか知り合いとかと、このことについて話すことがあったけど、その反応は、「かわいそう」とか「ヒドイよね」とかいう同情とか悲壮感のような感じの反応を聞いた記憶はなくて。

「アメリカって、自分の国じゃなくて、色んな他の国に行って攻撃してるのに、自分の国が攻撃されたら、大騒ぎやな」
とか
「今まで、色んな国に行って、爆弾落として、多くの人を殺してきたんやから、しょうがないよね」
とか。
そういう反応が多かった。
特に、一般のラオス人。ゲストハウスのスタッフとか、市場で働いてる友達とか、同年代の友達とか。

その頃、大使館に勤めながら、大学にも通っていたんだけど、大学の先生とか、知識層や役所のエライ人は、そういうことはハッキリとは言わなかったけど、それでも、同情的な雰囲気は、あまり感じなかった。
「また、アメリカは戦争を始めるよ、きっと」っていう感じはあった。

あと、自分の飼い犬に「ウサマ」って名付ける人が多発した。
私の周りだけでも、何人かいた。

それから、ビンラディンの顔写真をプリントしたTシャツとかが、あちこちで売られ始めた。
ビンラディンの顔がバーンとプリントされたTシャツがズラーッと売られている映像は、今でもよく覚えている。

明らかに喜んでいる、とか、盛り上がっている、とか、そんな感じは全くなくて、むしろ冷静というか、客観的というか。
でも、だからこそ、普段は見せない、ラオス人のアメリカに対する印象というか、スタンスが見えて、当時の私にとって、結構衝撃的ではあったので、よく覚えている。

ラオスにいる日本人の友達とかと、こういうことについて話をしたことも覚えていて。
「日本じゃ、絶対ありえない現象だよね」っていうのと、「でも、ラオスの歴史を知っていれば、気持ちは分かるよね」っていうのと。
改めて、ラオスの歴史、といっても、まだ新しい近々の歴史について、色んな話をしたと思う。

今の私なら、身近なラオス人に「犬に名前つけたり、Tシャツ売ったりしてるのって、ウサマ・ビンラデインに好意を持ってるってことなん?」とかって聞いてたと思うけど。
当時の私は、まだ、そんなに率直に聞けるような関係性のラオス人の友達がいなかったし、遠慮もあっただろうし、自分自身のラオスに関する知識もまだ追付いてなかったから、ラオス人とこういう現象について話すことはなかった。
もしその時に戻れるなら、聞いてみたいな、と思う。

ラオス人の反応の背景


ラオスの歴史はあまり知られていないと思うので、簡単に言うと。

ラオスは、ベトナム戦争の時に、アメリカに爆弾を約200万トン以上(もっと多いという説もあり)落とされたと言われていて、「世界で最も空爆された国」と言われています。
さらに、アメリカは、長い間、ラオスへの空爆を隠し続けていて、「秘密の戦争」などと言わたりもしていました。

ベトナム戦が終わったのが、1975年なので、このアメリカによる空爆を経験した人が、ラオスには、まだたくさんいて、私の知り合いにも、実際に空爆から何ヶ月も歩いて逃げた人もいるし、空爆が激しくて農作業が出来ずに食べるものがなかった、という話を聞いたこともあります。
現在でも、その時の爆弾が不発弾として、ラオス全土に残っていて、全てを処理するのには100年以上かかると言われていますし、今でも不発弾で毎年死傷者が出ています。

このトピックは詳しく書いていると長くなるので、また別の機会に書きたいと思いますが、こういう歴史的背景があっての、ラオス人の反応だということでした。

もちろん、ラオスに住んでいるアメリカ人もいるし、アメリカに住んでいるラオス人もいるし、同情的に感じでいた人もいたと思うし、「ラオス人がアメリカをキライだ」というような単純なことではなく。
当時、私は22歳で、首都ビエンチャンに住んでいて、大使館に勤務して、大学に行って、という生活をしていたから、他の都市とか、他の年齢層とかだと、また感じ方も違っていたかもしれない。

ただ、若き日の私にとっては、とても印象的で、私のラオスとの関わり方に影響を与えた出来事の1つだったと思うので、記録しておこうと思います。


もし、この時、ラオスじゃなくて日本にいたら。
日本の報道とかメディアとかしか目にしていなかったとしたら。
何か大事なことを知らずに過ごしていただろうと思う。

ここ数日、日本のテレビやネットで、当時被害に遭った人の記録とかストーリーとか、そういうのをよく目にしたけど。
例えば、ラオスでアメリカの攻撃で亡くなった一般市民とか、この9.11のあとアフガニスタンでアメリカの攻撃で亡くなった一般市民とか、そういう人にフォーカスされることはないという現実。

当時の私は、その後、こんなに長くラオスと関わるとは思ってもなかったけど、結果的に今でもラオスにいる私にとって、この出来事を日本ではなくラオスで経験出来たことは、本当に良かったと思っています。


※ちなみに、写真は、パクソンにあるカフェの入り口で、アメリカの残していった不発弾(もちろん処理後のもの)をディスプレイしてあります。
でも、別に「反アメリカ」とかいう強いイデオロギーがある訳ではなく、ラオスでは一般的な、よくある風景。半分に切ってプランターにしていたり。
特に、私の住む、ラオス南部は不発弾が多く残る地域で、そこに住む人にとっては、そのくらい身近なものであって、まだ終わっていないということ。

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