ミスは、「無知の知」に辿り着くための絶好のチャンス。

先日に引き続き、「ミス」とか「失敗」の捉え方の話になってしまうのだけれど、わたしはそういうことに直面したとき、ポジティブ思考に切り替えるのと同時に、「ミスがあるということは、自分にはまだ伸びしろがあるんだ」とも思うようにしている。

ミスがない、というのは、確かにその道を極めているということなのだろう。「私、失敗しないので」と言い放つ米倉涼子は、確かにプロたるオーラを感じるし、めちゃくちゃに格好いいと思う(このドラマを視聴したことはないけれど)。

しかし極めてしまうということは、それ以上にやりようがない、ということにも繋がるのではないだろうか。極めた瞬間は達成感もあるだろうけれど、その後は現状を維持する、ただそのことだけに終始してしまう。

現状維持とは、捻くれた解釈をしてしまうと、変化がないということだ。変化がないのは穏やかだけれど、どこか物足りないように感じてしまう。ワクワクすることが一つ減ってしまう、そんな気がしてならない。

ミスをした瞬間というのは、恥ずかしいし、悔しいし、悲しいし、迷惑をかければ怒られるし、場合によっては自分への怒りが生じる場合もあるから、一見マイナスの要素を多く孕んでいるように思える。でも、それをきっかけに「成長」することができる。自分に何が足りなかったのかを知ることができ、その足りないものを補うにはどうすれば良いのか考えることができる。学び続けることができる。

ソクラテスの「無知の知」はあまりにも有名な言葉だけれど、これはいつまでも学ぶ姿勢を忘れるなという教えなのだという(哲学は大学時代に一般教養で学んだレベルなので、もしかしたら多少解釈の違いごあるかもしれない)。思うに、ミスというのは、この「無知の知」を改めて突きつけてくれる、最大の機会なのではないだろうか。「無知の知」を知ることで、学びの大切さを知り、学びの楽しさを知る。人間というのはそうして生きていくものなのだと思う。

そう思えば、ミスというものも強ち悪いものではないなと思える。

それに大切なのは、そのミスを省みて同じことを繰り返さないようにすることだろう。同じことをしてしまうというのは、即ち「学んでいない」ということである。学び続けることが人間の使命なのであれば、その「学んでいない」ということは、人間の使命を放棄しているのと同義だろう。そしてその姿勢は、確実に周囲からの信用を失っていく。そのことはただミスをするよりも、現状維持をするよりも、ずっと大きな損失になるということを常に心に留めておきたい。

と言いながらも、わたし自身もまだ偉そうに説けるほどのことは成し得ていない。まだまだ失敗することも多い、発展途上の未熟な人間であるということは十分に自覚している。でもだからこそ、この発展途上にある「余白」が楽しい。この余白は一体、何によって埋められるのだろうか。この余白が埋まった頃、わたしはどんな人間になっているのだろうか。そしてそこに更なる余白はできているのだろうか。そうしたら今度はその新しくできた余白部分を、何で埋めようとするのだろうか。

そうしてどんどん大きくなっていく可能性があるというのは、なんだかとても希望を感じる。

どうせなら、悲痛より希望に満ちた人生にしていきたい。だって、人生は一度きりだ。そんなのは当たり前だけれど、日々の生活に押し流されていると、その当たり前もつい忘れてしまうけれど、定期的に立ち止まって、しっかりと自分の可能性と未来について考えていきたい。心からそう思っている。



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