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失われた時を求めて5 船神事・形状記憶


元禄14年の管絃祭、御座船が地御前から長浜に還る途中、暴風雨のため、転覆の一歩手前まできた時、付近に停泊していた阿賀の鯛網船(岡野一族)と九州からの帰途、厳島に参詣しようとした江波村の古川屋伝蔵が千石船に積まれた小型の伝馬船を下ろして救援した。
最後に江田島の田頭一族が鳥居の下で提灯を灯して導き無事帰還することができた。
御座船単独の自走で行われていた管絃祭は、遭難事故を契機に両村から漕ぎ船を奉仕することとなり大きく姿を変えた。
阿賀の漕船は鯛網船であった関係で現在でも2艘1組で6挺(ちょう)の魯を用いる。
江波は伝馬船であったから、その形を残した救難船で14挺(ちょう)の櫂を用いる。
当初は小型の伝馬船であったが、一回り大きい救助用伝馬船が用いられるようになった。
救難救助にあたった当時のうつしの姿がそのまま神事として踏襲される。
3艘3列が一体で3艘の御座船を引っ張る。駆動する櫂と魯の動きが相互に噛み合い、パフォーマンスを最大限に発揮するフォーメーション。
駆動力のある伝馬船の重心は船尾の荷重で調整され船団全体の合力を支える。
鯛漁で培われたコンビネーションと伝馬船の機動力が融合した無駄のない形。
記憶維持装置としての神事
神事は記憶を外部化し、劇化(ドラマタイズ)しながら変化してきた。

現在の伝馬船は一昨年山口県祝島の船大工の手で建造された。
それまでは倉橋島の造船所にて引き継がれてきた。
すでに、和船、鯛網船、伝馬船は多くの人の日常の記憶からなくなり、伝統芸能化し、説明が必要な時代に入った。
和船が途絶える日、そして新たなる変化の時。

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