古典を読まない学生(若者)を憂う

言い尽くされていることだが、最近の学生は本を読まない。もっとも一部のまじめな学生は、読書そのものはしている。しかし、内外の「古典」とされる本はほとんど読んでいない(なお、ここでは主として社会科学の古典を念頭に置いている)。だから議論をさせても浅いし、自分なりに考えることができない。

しかも、それは学生にかぎった話ではないようだ。それではいくら頭がよくても物事を原理原則から考えたり、大胆な構想を打ち出したりすることはできない。徒手空拳、我流で勝負しているようなものだからである。

残念というか、惜しいと思うのは、キャリアを積んで中年以降になってから古典の価値を認識する人が少なくないことだ。しかし、せっかく古典を読んでも若い時期に読むほどその価値が生かせない。

まず、それを批判的に読む頭の柔軟さがあるかどうかだ。

そしてもっと大きな問題は、自分の血肉となりにくいことだ。若いころに古典を読むと、その後の人生経験を古典に照らしながら自分なりに理解し、再構成できる。その蓄積が「使える」知識である。ところが中高年になると、それが難しい。せいぜい自分の体験を振り返って整理するくらいだろう。

もちろん単に古典を読んで知識として受け入れるだけでは役に立たないし、逆に自由な思考の妨げになる場合もある。

「古典を批判的に読む」こと。聞き飽きたメッセージかもしれないが、あらためて学生や若い人に伝えたい。

「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。