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アディショナル・タイム③

 男は、這いつくばっていた。
 とあるマンションの一室。必要最低限の家具のみで構成された、生活感の欠片もない、無機質な部屋。その中心で、男が一人横たわっている。
 突然、その男の瞳が見開かれた。
「ここは……何処だ……?」
 彼にとって、そこは見慣れない空間だった。まるで、その場所を初めて目にしたかのような反応。だが、彼の着衣は見るからに部屋着然としている。この空間の主は、紛れもなく彼のようだった。
「戻ってきた……のか……?」
 男は傍らに転がっていたスマートフォンを手にして、現在の日時を確認する。
「俺が死んでから一週間後……か」
 そう、その男は新谷だった。彼はアトの力によって生き返ったのだ。新谷は、にわかには信じがたい状況に、これが現実か確かめたくなった。軽く頬をつねってみる。はっきりと痛みを感じる。
「夢じゃない……! 生きてる……生きてるぞ……! ハハ、あいつ本当に神様だったんだな」
 新谷は、アトに感謝しつつ、目を覚ますために洗面所を探した。
(それにしても、この部屋は誰の部屋なんだ……少なくとも俺の部屋ではないが)
 リビングと思しき部屋から出ると、廊下に姿見があった。そこに映った自身の姿を見て、新谷は目を剥いた。
「なんだよ……これ……」
 鏡に映っていたのは、新谷刹那ではない、別人の誰か。顔も、背格好も、これまで己と認識していたそれとは全く異なっていた。
「お前は、誰だ……?」
 何者かの肉体という入れ物に、新谷刹那という意識だけが入り込んでいるような感覚。新谷は、これが何者なのか、その手掛かりを探すことにした。すると、玄関の下駄箱の上に、財布や小物が一纏めになっているのを発見した。免許証、健康保険証など、なんでもいい。身分を証明するものはないか。新谷は財布の中身を慌ててひっくり返す。すると、免許証が見つかった。わかったのは、古川大数(ふるかわだいす)という名と新谷と同い年であるということ、そしてここが新谷の住んでいた部屋と同じマンションであるということ。冷静になってみると、この部屋の間取りは新谷にとって見覚えのあるものだった。新谷は、小物類の中にネックストラップを見つけた。社員証だ。どうやら、古川という男は会社員だったらしい。そして、新谷にとって、その社員証も見覚えがあった。
「これ、うちの会社の――」
 そして、もう一つの事実が新谷を驚愕させる。
「しかも、俺と同じ部署……だと……?」
 だが、新谷は古川という男の顔も見たことがなければ、名前すら聞いたことがなかった。同じ部署で働いていたならば、そんなことはありえない。
(あの性悪女……最初からこうするつもりで)
「おいおい、性悪女とはひどい言い草だな? こんなに可憐な姿をしているのに。あっ、もしかして君のタイプじゃなかった?」
「!?!?!??!」
 新谷が振り返ると、いつの間にか、アトがそこに立っていた。いや、正確に言えば、浮いていた。
「物語に、ガイド役は必要だろう? なあ、主人公」
「心にも思っていないことを言うな」
「これは失礼。しかしまあ、君の絵に描いたような反応は実に面白かったよ。私からのサプライズは楽しめたかい?」
「最悪だ。そもそも、約束が違うじゃないか」
「約束?なんのことだ。君はちゃんとこの世に再び生を受けたじゃないか。ほら、二度目の人生のスタートだ」
「俺は、俺の人生をやり直したいんだよ! 今の俺は……俺じゃない。こんなのは望んじゃいない!」
「私は、君を君として、新谷刹那として生き返らせるとは一言も言っていない。そもそも君は勝手に自分で死んだんだんだ。贅沢言える立場か?」
 新谷は、返す言葉もなかった。勝手に死んで、勝手に期待しただけ。これは、あくまでも自分の選択の結果に過ぎない。
「…………これから、仮に俺が古川大数として生きていくとして、この古川という人間は一体何者なんだ。少なくとも、俺はこの男を知らない」
 アトは、深いため息をついて答えた。
「簡単に言えば――私が創った。君の魂の入れ物としてね。そして、最初からこの世界に"居た"こととして、世界を修正した。いや、世界に割り込ませたと言ったほうが正確か。まあ、細かいことはいい。君がこれからこの部屋を出て、会社に行っても、君はどこからどう見ても古川大数だ。それは保証する」
「俺は……新谷刹那はどうなっている」
「死んでるよ。もう葬式も済んでいるし、遺骨も墓の中だろうなあ。いいか、君はもう刹那じゃない。古川大数だ。これから君は、自分の死んだ後の世界で、別人として新たな人生を送るんだよ。これが私のしてやれる最大限だ」
 新谷の希望は、一瞬にして霧散した。これから、他人の振りをして一生過ごさなければならないという事実が、素直に受け入れられない。しかし、全ての原因は自身にあることも、また事実だった。アトに文句を言いたくても、言える立場などではなかった。
「ああそうだ古川クン! 君、仕事に行かなくていいのかい?」
 時刻は七時半になろうとしていた。
「ああ、クソ! やってやるよ! 二度目の人生!」
 新谷は頭を掻きながら、出勤する身支度に取り掛かった。アトはその姿を眺めて目を細めていた。
(さあ、これからどんな表情を私に見せてくれるのかな? セツナ)

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