貨幣という病

GDPが社会の富を表現するという考えは、アダム・スミスにさかのぼる。彼は日用品の流通量がその社会の富を表すと考えた。ゆえに、商品の取引において用いられる貨幣の量を計ることで、その社会の富を算出できることになる。だが現代においては、日用品ではなく、貨幣そのものが富を表現すると考えられている。こうなった原因はマルクスにある。

マルクスの最大の功績は、貨幣に価値があることを証明したことである。それまで誰も解明できなかった貨幣という現象を、彼は理論的に定義してみせた。すべての商品には使用価値と交換価値が備わっており、なかでも貨幣は交換価値に特化した商品の一形態である、と。

ここで我々は、彼が商品価値の等価性を示すために用いたレトリックを忘れてはならない。40エレの亜麻布が2着の上着と等価であるのは、両者を製造するために使用された労働量が同一だからである。ここに現れる労働の同一性という概念は、ひとえに人間平等論に基づいている。ある人間の仕事と、他の人間の仕事が交換可能であるのは、すべての人間が本質的に同一のものだからである。人間という種に属する個体が行う仕事は、すべて同じ価値を持つとみなせるので、同一の労働量で生産された商品は同一の価値を持つと言える。
 

この、人間は平等であるという仮定を取り除いたならば、価値形態論が成り立たなくなることは、彼の著書をよく読めばわかる。とくにアリストテレスに言及する箇所に、彼の本心が現れている。商品の交換可能性は人間労働の平等性に基づいており、それが貨幣の価値を保証している。

この推論を逆向きに進めると、貨幣が価値を持ちうるためには、人間労働は平等でなければならない、ということになる。つまり、貨幣に価値があることを前提とするならば、その条件として、人間の平等性を要求せざるをえない。というのも、もしも人間が平等でないならば、マルクスが証明した貨幣の価値は雲散霧消してしまうからである。

これが、現代における行き過ぎた平等論の原因である。リベラリストは貨幣に価値があると信じ込んでいるので、それを証明するために人間の平等を極限まで推し進めようとする。それはいまや、貨幣の力を社会の隅々にまで行き渡らせるための道具にすぎない。フェミニズムは貨幣崇拝の一種である。
 

現代の自由主義者は、人間の平等性を強弁することで、貨幣の力をより強固なものにしようとする。だが、人間の労働が平等であるはずがない。それぞれの仕事にはそれぞれの価値があり、一つの仕事を他のものと交換することなどできないのである。すべての仕事を貨幣に換算することは、仕事の多様性を無視することにつながる。

貨幣の下にすべての仕事は平等であり、そこに要不要の区別はない。ゆえに我々は、より多く貨幣を要求する仕事を増やし、より少なく貨幣を要求する仕事を減らせばよい。その仕事が人間の生活にとって必要かどうかを気にする必要はない。ただ貨幣の取引量を増やすことだけを考えればよい。そして、より付加価値の高い仕事を増やし、また、あらゆる人間労働を取引の対象とするならば、際限なくGDPを増やすことができる。貨幣こそが富なのだから、GDPが増えるほど、我々の社会は豊かになるのだ。

アダム・スミスは日用品こそが社会の富だと考えたが、我々の経済学は遥かに遠いところまで来てしまったようだ。経済学者たちが間違いを犯すきっかけとなったのは、マルクスの貨幣論である。彼は共産主義の開祖であるとともに、資本主義の創始者でもあった。彼の偽りの証明が、貨幣に神性を与えたのである。この点において、私はヒトラーに同意する。マルクスはまさにユダヤ的であった。
 

貨幣が仕事から個性を奪うものであるならば、仕事の価値を取り戻すために、貨幣によって仕事を評価することをやめるべきである。つまり、我々は税金を廃止しなければならない。政府が貨幣によって仕事を評価していることが、貨幣経済が暴走する最大の要因である。

我々は、仕事の結果を貨幣という単一の基準で評価するのではなく、仕事の多様性そのものを尊重しなければならない。ゆえに、政府は税金を徴収するのではなく、仕事の成果物を税として徴収するべきである。農家は政府に米を納め、健康な者は労働力を納め、機織りは絹を納める。自動車製造業者は自動車を納め、IT技術者はその技術をもって政府に奉仕する。それが税である。

このように税制を根本から転換するならば、我々は貨幣経済と決別し、より人間的な経済を構築することができるだろう。我々が目指すのは、誰もが仕事を楽しみとする社会である。生活のために働くのではなく、貨幣を手に入れるために働くのでもなく、仕事そのものに楽しみを見出す。それが最も人間らしい生き方である。

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