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あのこだけ今晩は(2020字)

 いつものように詰め替え用シャンプーを買おうとして、やめた。詰め替え作業を想像しただけで気が滅入ってしまったのだ。新品のボトルシャンプーを買う。気分は晴れやか。しかし生活とは、このような細部から破綻するものと相場が決まっている。帰宅した私は自分をいましめるために冷水のシャワーを浴び、凍え、髪は洗わず、スキンケアを怠り、夕食も抜いた。泣きながら寝た。

 翌朝、アルバイトに向かう前にビッグマックを2つも食べた。ビッグマックを2つ連続で食べた経験がおありだろうか? 2つめはハンバーガーでもなければ食べ物でもない。ただの概念である。概念を胃に流し込み、汚れた指を安物のスカートで拭う。自分の精神の乱れをはっきりと感じる。

 アルバイト先で私は神聖な事務作業に従事している。
 休憩時間には他の従業員たちと当たり障りのない会話を強いられる。
「ねえ宮沢さん、私の投稿ちゃんと見てる? こないだの花見の写真、いいねしてないの宮沢さんだけだよ? もしかしてミュートしてる?」
 などと死ぬほど馬鹿みたいなことを同僚の中年女に聞かれる。
「ミュートはしてないです」
 でも軽蔑はしてる。

 私はドラックストアで歯磨き粉を買う。スーパーで豚バラともやしを買う。花屋で一輪の黄色いフリージアを買う。帰宅して熱い風呂に入り、髪をしっかり洗う。普段のケアに加えて、たまにしか使わないボディクリームを塗りたくる。ムスクの香りがして笑う。粗末な料理を食べて、テニスの教則動画を30分も眺める。テニスなどやったこともないのに。歯を10分間磨き、フリージアを15分眺める。その後22分もためらって、あの子に「今晩は」とLINEを送る。7分後に返信がくる。「今晩は」。私のすべての細胞が眠りから目を覚ます。

  私  今何をしていましたか?

  あの子  人形遊びをしています

  私  私も人形になりたいな

  あの子  簡単なことでは?

  私  では私もあなたの人形ということで

 そこから40分既読にならず。私は画面を見続ける。端末をテニスコートに見立て、2人でテニスの試合をしているところを妄想する。なんとも楽しげな光景だ。

  あの子  人形遊びがようやく終わりました

  私  私は人形になったのかな?

  あの子  あなたはあなた

  私  (フリージアの画像を送る)

  あの子  (アニメの女の子が微笑んでいるスタンプ)

  私  かわいい

  あの子  この子を見るのが最近の楽しみです

  私  こちらでは観られないアニメだと思う

  あの子  それは残念

  あの子  (アニメの女の子の悲しげな顔のスタンプ)

  あの子  あなたの部屋の花も、こっちには無さそう

  あの子  美しいですね

  あの子  なんという花?

  私  フリージア

  あの子  名前もきれい

  あの子  そろそろ休みます

  あの子  (アニメの女の子が目を閉じているスタンプ)

 馬鹿だとは思うけど、私は画面の女の子に軽くキスをした。

  私  (目を閉じたスヌーピーのスタンプ)

 スヌーピーはあちらにも存在しているだろうか?
 私はベッドに横たわり、明かりを消す。



 ついこの前。地球を取り巻く大気は唐突にアップデートされた。肉体と精神の両方を害する高粘性の気体へと変貌したのだ。人間は新しい空気に耐性を持たない生物だ。それでも純粋な科学と純粋な祈祷によって、いくつかの地域が清潔に保たれた。清潔とはつまり、古い時代の空気と水が守られ、前時代的な価値観から大きく外れることがないという意味だ。結局、人間は人間以上のものにはなれなかった。私たちは政府が決めた区画にそれぞれ避難している。そのときたぶん、あの子とは別々の世界に保存されてしまった。私のいる世界には、彼女は役所的な意味では存在しないし、彼女のいる世界では、私は生まれてすらいないだろう。ただこの小さな端末だけは繋がっていて、依然としてメッセージのやり取りが出来る。私たちは二度と再び会うことはない。老化を晒すことはない。互いを脅かすことはない。それが私を安心させる。少女時代のお手紙のやり取りに似ている。たわいもない親愛の情の交換。幼いなりに感じていた、あの全身をつらぬく魂の衝突。その残像。そのまぼろし。少しずつだめになっていく世の中において、最後まで握りしめているに値する宝石だ。すっかり狭くなった世界の、ほんの一点にすぎないこの部屋には、私とフリージアが密やかに息づいている。部屋の外には、いにしえの正常な空気が保たれている。正常な空気とはつまり、流言と、流言を否定するための虚言と、他人より少しでも有利なポジションを奪おうとする浅ましさの蔓延のことだ。中世と何も変わらない。いつまでたっても馬鹿な奴ら。きっと私は少女漫画の不人気ヒロインのようにつまらない女なのだろう。妙に清純ぶっていて、変なふうにかたくなで、どこまでも子供じみている。何の役にも立ちはしないし、物語の邪魔しかしない。
 闇の中で端末が光る。

  あの子  その犬の名前なんだっけ? ダンボ?

 私は少し笑った。ダンボじゃないよ。これはSNOOPY。そして世界は非常にスリーピーなのだ。私は目を閉じる。幸せな気分で眠る。


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